「心はどういう風に出来上がったか」

 対象化出来ないものを対象化する。これは人間の心に特有だ。「存在」「意味」「神」「今」など。ウィトゲンシュタインなら対象化出来ないものは対象ではなく、語り得ないものとするだろう。
 「ハイデガーが存在について考えるのも分かる。人は言語の限界に向かって突進するのだ」というようなことをウィトゲンシュタインが言っていた。
 しかし、なら何故、「存在」「意味」「神」「今」など、対象化出来ないものに名前が付いているのだろう。これらを何らかの仕方で対象化している証拠なのではないか。
 確かに、これらは一般的に言われる対象の在り方をしていないだろう。何故なら「存在」も「意味」も「神」も「今」も、決して現れているものではないからだ。これらは現象するものではない。これらは個として存在するものではない。むしろ一般的なものとして存在する。例えば、ゴミ箱は個として存在しているのだから、私たちはそれを他の周りと区別し、ゴミ箱を対象化することが出来る。
 しかし、一般的なものを対象化することは、他との区別の上で成り立つものではない。ある景色の中から、ある一つのものを対象化するのではなく、その景色全域が一つの対象であるように扱わなければならない。
 全体と対象という言葉は矛盾するようだが、私たちは全体を対象化しているのだ。しかしどのようにだろう。この全体を対象化出来た、その起源はどこにあるのだろう。赤ちゃんとして生まれた時でもないし、小学校に上がった時に急に身につくのでもない。ましてや猿から進化した時に、全体を対象化するようになったのでもないだろう。
 全体性を一般的なものと言い換えることも出来るだろう。そしてまた、「存在」「神」「今」「意味」などを捉えられるのが、心の心足る所以なら、この全体を対象化出来るようになった起源、そこに心が生まれた起源があるのだ。
 しかし赤ちゃんの時を考えても、小学生の時を考えても、ある時突然、心が生まれたというのは考えにくい。私はだんだんと心が一般的なものを、抽象的なものを捉えるようになってきたのだ、と考えたい。
 拙著『心の研究』では抽象する能力こそ、心の本質的な能力だということを書いた。しかし、結局のところ、それはどのようにそういう風になっていったのだろう、という疑問は残ってしまう。それを最近考えている。
 言語を持ったから「神」「今」その他諸々の抽象的な、一般的な概念が生まれたと考えるのもいいかもしれないのだが、私のイメージでは何か意味を感じて、それに名前を付けることで、それが言語化される、というのが言葉の流れだろうと考えていて、記号より意味が先行するのなら、その意味をどうやって捉えたのか、という疑問がある。
 ここでまた『心の研究』でも考えたことなのだが、動物や無機物といった自然のものでも、心は有ると私は考えている。全体性や一般的なもの、抽象的なものは、動物でも石でも水でも持っている。しかしそれは眠っている。私たち人間はその全体性や一般的なもの、抽象的なものを起こしたのだ。
 動物の世界は人間の意識の世界よりも、脳の神経細胞が発達していないのだから、茫漠とした世界なのだろう。それはある意味、人間の世界より抽象的な世界を生きているのだ。いわば分析が出来ていなく、個々の対象がはっきりとしていない世界だ。
 だから動物の世界は人間よりも「神」に近いとも言える。他方、人間が理性をフル活用すれば、動物よりもはっきり神に近付けるとも言える。
 これを石や水にすると、彼らの場合は、もはや動物よりも個々の対象と言ったものがない、個々というより彼らには対象がないのだから、彼らはそのまま「神」「存在」「今」というものと一体化している。考えてみるとそうだろう。石や水が未来を心配することは出来ないし、過去を憂うことも出来ない。「今」を生きるしかない。八百万の神々、あらゆる自然物にも神が宿っているというのは、こういう観点から考えられたものだろう。
 元を辿れば辿るほど、純粋な心が見えてくる。しかし彼らにはその心に自覚がないのだ。その心を気付くということがない。対象化出来ないから。
 これはロボットにも言えることだ。「中国語の部屋」という思考実験でも同じようなことを言っている。ロボットはスイッチを押されれば、何かしらのアクションをする。しかしロボットはそれをメタ的な視点から見ることがない。それもそのはずで、ロボットというのは原理的にそういう風に作られているからだ。言われたことを、プログラムされたことをこなせばいいので、わざわざそれを外から眺める必要がない。この意味の対象化がロボットには出来ない。だからロボットにはクオリアがあれど、ロボットがそれに気付くことはない。それは無機物、自然物と同じだ。私はクオリアは対象に内在すると言ってもいいと考えているが、自然物にクオリアがあれど、自然物がそれを対象化することはない。
 つまり、元々あった心を起こしたのが、人間の心なのだというのが私見なのだが、こう考えると、ますます心が突如として現れたのではなく、だんだんと心が目を覚ますようにして起きていったのだ、と考えたくなるのだ。
 ところで、「神」「存在」「今」など抽象的なものを対象化するということだが、私たちはこれをどれだけ対象化出来ているのだろう。というのも、例えば「今」を考える時、「今」を捉えようとすると、それはすでに過去のものになり、また「今」はすぐに未来になる。しかしそれにしても「今」はいつでも「今」なのだが、少なくとも個々の「今」という意味では私たちは対象化出来ていないのだ。あくまでいつでも「今」である、という観念的な「今」、極めて抽象的な「今」があると思念出来るだけなのだ。しかしいつでも「今」だ、と思念したその「今」を、そのまま持続して思念することも出来ない。私たちの意識は次々に次に移るからだ。
 ハイデガーと同じような問いを考えて、今考えた「今」のような事態に陥った人は多いと思う。つまりいくら留まり考えようとしても、すり抜けるようにして「今」や「存在」はどこかに行ってしまう。姿をくらましてしまう。それもそのはずで、そもそもこれらは極めて一般的である、という性質を持っているので、個々のものとして対象化することが出来ないからだ。何かを対象として考える思考の性質とは相容れないのである。
 それにしても「今」や「存在」は当たり前のものでもある。私たちはそれが無いとは言えないだろう。その意味ではまた対象化しているのだが、そうだ、この時、二重の意味で対象という言葉を使っていることに気付く。個々のものにおける対象と、一般的なものとしての対象だ。一般的なものとしての対象を、個々のものにおける対象として扱おうとする、これが「ハイデガーが存在という言語の限界に突進する気持ちが分かる」とウィトゲンシュタインに言わしめた事態だろう。
 ところで、一般的なものというのは、自然物も持っているし、動物もそれに近いところで生きている。先に言った通り「今」はいつでも「今」であるし、どこかしかも「存在」しているもので溢れている。「今」も「存在」もだんだんと分かってきたというより、私たちはいつもそれに触れているのだ。だからこそ科学が発展していない、古代からこのような問題は考えられてきた。つまり「今」や「存在」と言ったものは、少なくとも人間の歴史とは関係がない。
 当然と言えば当然だが、カントの用語を使えば、アプリオリ(先天的)であるのが「今」や「存在」だ。ならそれを起こしたのでれば、そこにアポステリオリ(後天的)、すなわち経験的に知ったのだということが出来る。
 しかし動物も経験は出来るだろう。この経験の動物と人間の差が、「今」「存在」などに改めて触れることが出来るか、否かに分かれる分岐点だと考えられる。
 動物と人間の経験の差とは何だろう。先の議論に戻れば、人間の経験は動物よりも、個々の対象をはっきりとさせることが出来ると言える。動物のように自覚のない抽象的な世界を生きているのと、人間のように自覚のある抽象的な世界を生きるのは、一度事物を具体的なものにしてから(はっきりと対象化)させてから、また抽象化するという作業が必要になる。
 具体的なものを起こしてから、その延長線上に抽象的なものを起こすということが待っていたのである。だから一般的なものを個々のものを対象化することと混同し、思考不可能なもの、言語の限界に向かっていくこと、そのことが起きるわけだ。
 具体的な「今」から抽象的な「今」があることを知る。経験的に生きて、対象を、事物を知る世界から、そういえば、と思い出すように、一般的な、全体的な、形而上的なことを考える。これはまさに哲学的な営みだ。
 逆説的だが、心が出来るのは、具体的なものが発展していくその延長線上で、思い出す、という仕方によるのだろう。

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