気持ちと世界の重層的構造

 世界は重層的な構造を持っている。
 闇と光、女と男、知性と意志、耳と目、海と大地、時間と空間、一般と個、等。闇は広がりを持ち、一般的なものにかかり、包容力のあるもので、女性的で、耳は闇の中でも効き、闇の中に知の起源があり、呑み込もうとする知性の在り方は海的であり、時間は闇の中か光の中かで言ったら闇の中に在る。
 光は槍のようであり、それは男性的であり、貫く意志的であり、目は光を必要とし、大地の上で立つとは意志の在り方であり、空間は目を開くのと同様、開かれるものであり、意志が何かに向かうように、空間は奥行きを必要とする。光は焦点を合わせるように、意志の先が尖鋭的であるように、これらは個に向かっている。
 世界の二項対立的なものは全て、このように重なり合っている。つまり、世界は重層的な構造を持っている。重なっている、ということから比喩は可能になる。また象徴もこのことによって可能になる。
 世界は鏡に映ったものを、向かい合わせの鏡がまた映すような構造になっている。これはモナドロジー的だと思うのだが、モナドロジーを読んだことがないので、詳しくは分からない。
 あるものがあるものとして、自己を持つかのように存在出来るのは、うつったものに差異があるからだ。重層的な世界は、ものからものへ気持ちがうつることで成り立っている。その気持ちがすることを私たちの知性は意味として捉える。すなわち、ものに意味があるというのは気持ちがすることである。
 私にとってものの意味、例えば石の意味は感じだ、と『心の研究』では書いていた。しかしそれは知性に寄りすぎていた。石の心を知ること、それをそのまま石の心だと言っていたのだ。
 しかし、ここで変えなければならないのは、心にとって本質的なのは知性よりも気持ちである。直観よりも気持ちが先行しなければならない。石には石の感じがあり、その感じが石の心だ、というより、石には石の気持ちがあり、それが石の心だ、という方が心に近付ける気がしないだろうか。
 ここからまたクオリアとは情念を持つ、と個人的に思っていたことも理解出来る。ただ感じというよりは、気持ちがある、と言った方が草木を見る時に感じる安堵、清々しい天気を見た時に晴れる気持ち、火山を見る時に感じる厳めしさ、それらには感情的なものがあることを説明出来る。
 そして私が薄々思っていた、知性や意志よりも情念の方が根源的であるということも説明出来るようになる。
 『心の研究』では空の天気は気分や感情に対応する。そしてそれと知性の形態、印象、観念、雰囲気、意味、情報、等が対応している。ここも重層的な構造を持っている。
 また修正しておくならば、空と対応する知性とは、全てを照らす太陽が観念、落ち着くところに向かう雨が意味、煽る情報が風、響かせる印象が雷、フワフワとした雰囲気が雲になっている。晴れは喜びであり、落ち着きは哀しみを纏い、煽るものは愛と意志、響かせるものは怒り、フワフワしたものは楽という感情に重なる。
 天気という気分や感情に重なるものが、知性としての形態に変化する。しかし感情の方が根源的である。海よりも地よりも、天(宇宙)が先行している。
 世界は感情的に出来ている。世界の起点は気持ちである。この気持ちがうつり、何度もうつっていけば、習慣が出来、個が出来ていく。より多くの気持ちをうつしたもの、そのうつされたものが多いところ、それが個性になる。ただ鏡が向い合せになり、互いのものをうつすという比喩だけではこのことを説明出来ていない。うつすものの量には差異があり、したがってうつされたものには差異が出てくる。それが鏡と鏡が映し合っていても、世界が無限に一様なのではなく、多様な世界を造りあげている、ということを説明するためには必要である。
 気持ちをうつすから比喩的な表現が可能になる。気持ちをうつしているから、世界を詩的に表現することが出来る。詩は事実ではないが、事実より豊かに世界を表現することが出来るだろう。 
 私たちの世界はモノクロではない。私たちの世界はカラフルだ。色が様々な観念を説明するのは、色には気持ちがあるからである。暗い色は暗い気持ちを、明るい色は明るい気持ちを、青さは冷静さを、哀愁を、赤は情熱を、興奮を、白は清らかさを、聖なるものを、黒は邪悪さを、色には気持ちがはっきりと現れている。

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