「宇宙の音と形態」

 聞こえる音があるということは、聞こえない音があるということだ。聞こえない音とは印象にも残らない音である。冷暖房の音は鳴っているし、聴こうと思えば聴こえる。しかしすぐに気にならなくなる。聞こえない音になる。冷暖房の音は空気に風を吹かすことで鳴っている。宇宙には空気がないし、音を伝えるものがないので、音は伝わらない。音が伝わらないということは音はない、とも言える。しかし天体の動きが美しい音楽である、と言った古代の考え方はどこから生まれたのだろう。それは数学的なものだろうか。そういう側面もあるかもしれない。
 しかし目と耳が見聞という言葉に対応する器官であり、対になっているように、音と情景は対になるものである。音色という言葉に観念的なものが含まれるように、音は情景になる一段階前の形態であるということが出来る。音という対象に対応する知性は印象である。情景という対象に対応する知性は観念である。音は余韻を引く。印象も後に残る。音は流れる。印象も流れる。音は響く。印象が強くなると衝撃を持ち、心に響く。音と印象の述語は共通する領野を持つ。
 情景はそのまま観念的であるということが出来る。
 印象はまだ暗闇の中にある。それが明らかになると観念的になる。音と光の形態は波である。光がものに反射することでものの形が分かる。その一段階前の形態として、音がものに反射することでものの形が分かる。音に対応する知性の形態の印象も、ものに反射し、ものが響き合い、その最もよく響いたものが印象に残るようになっている。それは情報である。
 情報とは煽るもの、風のことである。天気の情報を掴むには風を読むことが必要になる。マスコミが煽るものであるのは、避けられない仕組みだろう。ネットの情報もまた人を煽る。
 情報とは伝わってくるものだが、私たちの世界にある情報が、全てそのまま飛び込んでくるわけではない。聴こうと思えば聴けるが、聞こえない音はたくさんある。主体が発する印象の波と反響し、ものが響き、情報が煽られ、また主体に情報が吹き込んでくる。それが印象に残れば、そこに焦点を当てて、それは観念的な意味を持つ。
 情報とは煽るものでもあるが、ポジティブに捉えられる面も持つ。そこには運命的なものもあるだろう。風に運ばれ、印象に残ったものを、よく目を凝らして見る時、そこから空間が開けてくることがある。風はには愛と意志が伴われる。
 音が鳴る前の形態、風が吹く前の形態とは、単なる動きである。その動きの痕跡が残らないから、音が響くわけではない、空気が動いたということも言えない。しかし何の痕跡も残さなくとも動きは有り得る。音の鳴る前の形態、印象も残らない、その時の形態、それが天体の動きである。
 音が鳴る前の形態に美しい音を見出せたのは、それが取りも直さず音の一形態であるからだろうと思う、とお風呂に入らなければならないので、無理やりオチをつけて終わりにします。

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