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ふぐ免許

21歳からふぐ屋にいた。
18で板前修業を始め、横浜の大衆割烹店で風呂なし住み込み生活、初任給は8万円だった。

横浜で2年勤めたがどうしても1流の店で働きたいという欲求に勝てず、地元を離れて東京に出た。

最初は三田のオフィスビルの地下に出来る大型店舗の募集に引っかかった。
調理場12人の大型店舗だった。
歳は一番下。持ち場は焼き場脇。
新規店の為、花板である板長は会議が多く魚が届いてもおろす時間がない。
元来図々しい自分は勝手に魚をおろしてしまう。失敗などへっちゃらである。
ほんとは魚おろしたいと思っている先輩の目もへっちゃら。しかとする。
先輩方に可愛がられたかどうかは覚えていない。

中々楽しい毎日ではあったが、グループ店最高峰の銀座の京懐石の店で欠員が出た。親方であるグループ総料理長が厳しすぎて誰も続かないという事らしい。 それならばと志願した。虎の穴に入る覚悟であった。

銀座店は噂に違わずめちゃめちゃ過酷だった。調理場は自分を含めて4人。
親方と先輩の性格がめちゃ悪いw
入店して2ヶ月ぐらいでいじめが始まった。 

兎に角、休憩を与えられない。
今までに無かったらしい高度な仕込みが増えた(らしい)朝5時に出勤、ランチが終わると賄いを食べまた仕込みに戻る、17時には先輩と親方が休憩から戻り、夜懐石の仕込みのチェックをされる。間に合ってない物があろうものなら鉄拳が飛んで来る。
半年以上「笑顔」を忘れた。
30分電車に乗れば地元に帰れるけど友達にも会いたく無かった。笑える自信がないからだ。自分で選んだ道だから”愚痴”もこぼしたくなかった。
入店1年で”献立”が1周した。季節に因んで作る懐石料理は毎年繰り返しして行くものなのだと知った。2周目になると突然興味を失ってきた。
「懐石、料亭の料理人が目指すものは名店の料理長になることや。」
と親方が繰り返し言うが、そんなものに興味がなかった。

その頃には一つ上の先輩も辞め、新人が一人入社していた。
あとは煮方の先輩と親方だけであった。
風当たりは厳しさを増す。
煮方の先輩のいじめも中々のものだった。技術の為に我慢し続けた。
技術が上の人間が偉いのが調理場の常識である。
この先輩は言わば地元(横浜)の人で辿ればどこの中学でどこの高校かなどすぐに分かる。技術面以外は言わば”大したことない奴”である。
そんなある日のイチャモンにへいへいと頭を下げていたら逆鱗に触れたのであろう煮方が喧嘩売ってきたw 
「先輩後輩関係なしでやってやる」ときた。
俺に勝てるわけねーだろw
じゃあやってやるよとなり更衣室で待たせた。掃除を終わらせてから(真面目か)店を辞める覚悟でぐちゃぐちゃにしてやろうと思っていた。
が、逃げられた。
自宅を探して追いかけてやろうかと思ったけど、最早どのツラ下げて翌日から仕事になるだろうか。
翌朝本社に行き退職を願い出た。

全てがすっきりして、久しぶりに大笑いした。

しかし、長期で休めるほど蓄えもないのですぐに就職活動し、3日後には麻布十番のふぐ割烹に入った。
この店が最高に面白かった。
特に、開店したての六本木店の客層は凄かった。
一流の芸能人、政治家、野球選手、ヤクザwなど。
お客さんと話し、料理を食べている顔が見れると言うのも楽しかった。
麻布十番本店と六本木店は近すぎてお客さんが被る為、特に本店が忙しくない時は六本木店の手伝いに駆り出された。
兎に角忙しい場所にいつもいるのが最高に楽しかった。

入社してすぐふぐのおろし方を教わった。
ある日唐揚げ用のシマフグが発泡スチロール箱で大量に来た。
3店舗で分けるのかと思いきや、各店8箱である。
その日だけで130本のふぐをおろした。
ふぐおろし工場並みである。入社1年目の東京都ふぐ調理師試験は一発合格!
そして入社2年目にして四谷店を任されることになった。23歳の春であった。

インドネシアではふぐを食べれる店は極端に少ない。
最近それに気がつき割烹呑は「ふぐ・割烹」を名乗ることにした。
Only one は儲かるのだ。

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