村山悟郎「多の絵画」美を探求する姿勢 補論

テクノロジーはそれが実際どのように役に立つのか?という視点と同じぐらい、テクノロジーのアイデアや考え方そのものが私たちにどんな視点を提供してくれるのか?という哲学的な意味からも評価されて然るべきなのだろうと思う。
村山悟郎個展「多の絵画」についてのレビューを書いた。元々4000字という依頼だったが、作品タイトルなどに含まれる技術用語の説明に思いのほか文字数を使ってしまい結局1.5倍を超える文量となってしまったが、それでも語り尽くせないこともあった。
例えば、原稿の中でセルオートマトンについてごく簡単な説明もしてみたが、セルオートマトンが人類にとってどんな意味があるのだろうか?と考えるだけでもそれなりの文字数が必要になるのは必至だ。
セルオートマトンの説明は先のレビューにも書いたし、今どきネットを検索すればその技術的な解説はいくらでも出てくる。関連するライフゲームなどについては、場合によってはアニメーション付きの解説を見たら、言葉で説明することの限界を超えてすぐにわかるかもしれない。
でもセルオートマトンが人類史にどんな意味を持ちえるのか?について考えるならば、また別に語る場を設定する必要がある。研究の分野で私が知っているのは、動物の体表に現れる模様のシミュレーションがセルオートマトンによる研究でだいぶ進んできたということ。イモガイの貝殻の紋様が1次元セルオートマトンのシミュレーション結果と酷似していることのみならず、ピューマやキリン、ヘビなどの体表の模様についても、二次元セルオートマトンによるシミュレーションアルゴリズムが作られている。生体内においてこれらは個々の細胞同士が周囲の細胞とやりとりしあって結果として体表に現れることになるわけだが、これのルールは自然淘汰の中で生き残って選択され、現在に至るわけだ。別のパターン(ルール)が発現していた可能性もあったが、例えばサバンナ地域で周囲の環境にうまく擬態できなかった体表模様の発生ルールというのは淘汰され消えてしまった。
セルオートマトンと人間の関係で言うと、セルオートマトンの個別のエージェントに人間がなりきって、集合的にモノづくりを体験する「パスタ建築」というワークショップを、2007年に作ったことがある。double Negatives architectureによる展覧会「Corpora in si(gh)te」での関連ワークショップとして開発した。
詳細はYCAMのアーカイブにも載っているが、このワークショップのコンセプトで重要なのは、設計図なしで単純なルールに従って集合的に創作をしていった結果、多様な形態が生まれるという経験を提供できることだ。つまり、創作の秘密というか、多様性の発現する瞬間に立ち会えるというような意味があるワークショップなのだ。こうした興味は村山悟郎の創作の動機とも、深いところでは繋がっているようにも思える。ユニークな形態を生み出すために、人間の個人のセンスだけに頼る必要はないし、また、結果は一つとも限らない。似てはいるが微妙に異なる結果を生み出すために、アルゴリズム(手順、手続き)が重要な役割を果たしている、ということが認識されるべきだと思ってこのワークショップを開発した。

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Bharatadhikarimb, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

蟻塚。アリ一匹ごとには設計図を理解していたり全体像を把握している訳では無いが、集合としては巨大な構築物を整形したり、壊れた箇所を修復する能力を有する。ワークショップの最後には、蟻塚やサンゴの画像を見せて集合的な創造性について考えてもらう時間を設ける。

パスタ建築ワークショップにおいては、アルゴリズムだけでなく、パスタ建築を立てる床面の素材も重要であったり、パスタの太さや接続に用いるホットボンドなどの接続素材も影響は大きいのだが、このワークショップではそのことまでは踏み込んでいない。必ずしもアルゴリズムのみが形態に影響を与えているわけでは無いが、いずれにせよ建築=構造物・構築物を、個人の創造性とは切り離した要因で形作る体験を提供したいと考えて、ワークショップの設計がなされている。そしてその体験の意味づけをより踏み込んで考えるなら、各個別のエージェントの知性とは無関係に、各種条件と手続きによって結果が生まれるという営み全体を、秩序形成とか、社会形成とかいった範囲まで広げてみると良い。ルール立案や政策立案といった立場に携わる人間へ求められるセンスは、もはや単に破綻なくルールを描けるかどうかという単純な能力だけで無いことが明確になっていく。むしろ、シミュレーション能力というか、間接的な力学の影響を想像できる能力というか、そういった類のセンスが求められよう。
このように、テクノロジー、またはそれに付随するアイデア・考え方というものが、人類の創造性とどんな契約を結んでいるのか?といったことは、今後もいちいち検討されて然るべきだと思うが、やはり検討の場は芸術というフィールドが適切なように思われる。その理由としては、基本的に芸術という場が、多様な語りや問いが提出されることを歓迎する性質を持つためだ。芸術のフィールドが狭隘な美術史のみならず、科学技術史やまたは哲学史、経済史といったさまざまな過去のアイデアを放り込んで闊達な議論が交換される場になれば良いと思う。そのためにはたくさん雑多な知識を勉強する必要があるが。効率や速度を求める学習とは真逆な、遅い教育というコンセプトがより普及したら、そうした営みが当たり前のように受け入れられる世界がやってくるはずだ。

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