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【はじめに全文公開】宇垣美里さん絶賛!はらだ有彩『女ともだち―ガール・ミーツ・ガールから始まる物語』より

『女ともだち──ガール・ミーツ・ガールから始まる物語』
はらだ有彩(大和書房)2021/4/10発売

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宇垣美里さん絶賛!

かつて私を救った女と女の関係を美しく力強く言葉にしてくれた。
頼むから黙って読んで
共に胸を撃ち抜かれてくれ。

『日本のヤバい女の子』の著者が贈るすべての女子へのエール! ガール・ミーツ・ガールから「未来の私たち」の物語が始まる。最強の応援ソングのように心強い、キャッチーで自由で繊細な最新エッセイ!


*はじめに*

このエッセイを読んでくださるかたへ

 「女の子とルームシェアをしています」
そう自己紹介すると、時々、次のような質問を投げかけられることがある。

家に彼氏呼んだりしないの?
結婚する時はどうするの?
家具なんか割勘で買ったら、あとで揉めない?
もしかして二人は付き合ってるの?
いつまで一緒に住むの?

 これらの問いかけに対して、私は「なぜそんなことを聞くんだろう」という疑問を抱く。しかし「なぜ?」とざらつく気持ちの下に、なぜか「なるほど、聞くのだろうな」と反射的に理解を示してしまいそうになる広大な土壌を、ふと自分の中にも見る。

 どうやら、どんなものであれ女二人の関係には、「いつか終わる」という前提があるらしい。質問する善意の人々も、私自身も、その空気を吸いながら生きているらしい。

      

 結婚することを「落ち着く」「片付く」「おさまる」と表現することがある。まるで一組の男女が法律の下、特定の形態になってようやく「一人前」であるかのような言い回しだ。

 それに対し、女性同士の関係はしばしば「一」未満として語られる。年齢やライフステージに左右される過渡的なもの。友情と混同した気の迷い。表面的でしかない、まやかしの付き合い。

 少女教育が花嫁修業だった歴史のせいなのか、男性器を挿入するセックスをスタンダードとする風潮のせいなのかは定かではないが、人間関係の「一」に満たない、取るに足らないものとして扱われる。

 例えば、「女の敵は女」という言葉がある。この言葉の中には「女」と「女」しかいない。にもかかわらず、言外に「(女の足を引っ張るのは結局のところ女であり、)男ではない」とほのめかす気配がある。つまり、女と女という「一」組のリレーションシップを語っているようで、女と女という要素だけでは成立しない構造になっているのだ。ちなみに、昨今のメディアでは「女が嫌う女」という主題が批判されながらもたびたび取り上げられ、炎上を繰り返している。

 例えば、「紅一点」という言葉がある。男性の集団の中に女性がひとりいる状態を指す言葉だ。もともとは「有象無象に交ざる類まれな才能」という意味だったこの言葉はいつの間にか女性専用となり、一方で才能を表していた頃の名残なのか「本人にとってちょっと美味しい、悪い気はしない評価である」という感覚だけは染み込んだまま、なんとなく「紅一点」と呼ばれることは女性にとってもまんざらでもない扱いだろう、と解釈されてきた。この解釈は「特別扱い」から「ちやほやされていい気になっている」へと古典的な連想によって変容し、「いい気になっている紅一点(女)」に対して批判を投げかけるのは「いい気になりそびれた」女のはずだ、やはり女の敵は女だ、という主張をまことしやかに支えてきた。ちなみに、戦隊シリーズの女性メンバーは1975年の『秘密戦隊ゴレンジャー』以来、1981年の『太陽戦隊サンバルカン』(0人)を除き、1984年の『超電子バイオマン』までずっと一人きりだった。

      

 ──女が二人。

 彼女たちの関係は、いずれ消えゆくまぼろし、または憎しみ、あるいはセンセーショナルでキュートなコンテンツに終始するのだろうか。この後語られる予定の、ストーリーの主軸のための布石として処理され続けるのだろうか。二人の人生は、そんなイージーな枠に収まりきるだろうか。ボーイ・ミーツ・ガールでシーンは動く。では、ガール・ミーツ・ガールでは?

 彼女たちの繋がりによってもたらされる物語を辿り、エンドロールを追いかけてみたいと思う。



#はらだ有彩 #大和書房 #宇垣美里 #女ともだち



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