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誰かの心に勇気を与える

スポーツの一つにこのことがあることはよく言われていることだ。

だけど、誰かの心に勇気を与えるためにスポーツをしているとしたら、それは少し違うような気がしている。

あくまでまずは、己を成長させるためでないといけないと思う。

そして、そういう人たちが集まって切磋琢磨している姿がいい。

さらに言えば、対戦する相手とも敵とはいえ、互いを成長させるためにぶつかり合うその姿勢を見て、誰かの心に勇気を与えるのではないかと感じている。


先日、小学校1年生の息子さんを持つお母さんから

うちの息子、極真空手をしてるせいかよく、人のことを叩いてしまう。

というご相談を受けた。

僕はこう答えた。

武道やスポーツ、特に武道は相手の力を上手に使うことで、相手を負かすことが武徳とされてます。だから何が言いたいかというと、相手の気持ちがわからないと勝てるようにはならないということです。人を思いやる気持ちや、人を守ることとかを学ぶために、極真空手をしてるということを改めて説明していく必要性があるかもしれませんね。


近年は「勝つこと」にフォーカスしているスポーツ指導者がとても多いような気がしている。

いい結果を出すための、技術やトレーニング方法なども然りだと感じている。

スポーツや武道、もっと言えば体育や運動にはもっと大切な、人が生きていくための“いろは”がいろんな場面で経験できる場だと思っている。


今年の冬くらいの話になるが、サッカーの練習中に一人のコーチの方が来た。そのコーチが歩いて行った先に、座るところがなかった。するとふとそのコーチがたくさんベンチがある方をチラッと見た。そして、座れるところに、あきらめて座り始めた。

その様子を見ていた僕は、数名のサッカー部員にこの様子を伝えた。

そしてベンチを持って行かせたのだが、こんな気遣いのシチュエーションは視野の広さだったりする。視野が狭い選手は当然ながら活躍することはできない。そして、人がどう感じているだろうということを想像できない人が、自チームの選手や相手チームの選手の気持ちを想像することはできない。

からだを動かすことを通して学ぶことって、勝つとか負けるとか、技術を習得するとかはあくまで結果論で、その過程の練習や日常の中には、人間力を磨くために必要なことが沢山感じ取ることができる最高な機会だと感じている。

勝った負けた。技術が習得できた、できなかった。ベンチ入りできた、できなかった。それはあくまで結果論。けれどその結果を踏まえて自分の人生にどう生かしていけるかは、人生の分かれ道なんだろうなぁなんてこともすごく感じている。


どちらにしても、自分自身が成長するために頑張り、そういう人たちが切磋琢磨し、そういう人たちとそういう人たちがぶつかり合うことで結果、誰かの心に勇気を与えられるのだろうと感じてる。

だからチームみんなでTシャツ作ったり、合宿をいって保護者が盛り上がったり、華美な激励会とかを開いて応援するスタンスで心が熱くなったりするのは、なんか違うと思ってます。ずっと前から。

そういうことで心が誤魔化されてしまって、一つになってる感に酔ってしまいやすくなる。僕はそういうのは好きではない。あくまで、日常が大切だと感じています。

僕の活動に関心を持っていただきご支援いただける方はよろしくお願いします。一人でも多くの人が心が弾むような生活が送れるように悩み事をひとつひとつ丁寧に対応していきたいと思います。がんばります!!