VARが変えるもの

Dai Tamesue 為末大

VAR(ビデオアシスタントレフェリー)が今、注目されています。日本とスペイン戦で、ゴールした後、三笘選手がラインを割っていたかどうかを判定することで活躍し一躍一般の方々の知られることになりました。これは判断に困る時、ビデオで正確に見て判定することを目指しています。このようなものが過去にあったならば、過去の歴史的な勝負も違った結果になっていたのかもしれません。

VARを「機械による判定」だということにすると、今後はもっと広がっていくと思います。その際にどんなことが起きるか少し考えてみたいと思います。一例として、競歩という競技はかなり変容するでしょう。競歩はロスオブコンタクトと言って、地面に必ずどちらかの足がついていなければなりませんが、実際には両足共に浮く瞬間が幾度もあると言われています。これを厳密にとっていけばかなり技術が変化するはずです。

要するにそのように見せているものも暴いてしまうということがVARだと考えると、興味深いのは芸術点が存在するスポーツの世界です。陸上やサッカーは客観的な公平性を重視するために主観を極力排除していますが、新体操やアーティスティックスイミング、フィギュアスケートなどの芸術点はたくさんの主観の集まりで評価をしている世界です。この主観を暴くことはできません。そもそも主観なので正しいも間違えているもありません。でももし仮に導入されるとしたら、この技術はこの点というふうに割り振っていくのでしょう。そうなると審判が評価をするのは技というよりも全体としての美しさというものになるのだろうと思います。

おそらくこの美しさを決めるということが人間の聖域になっていくのではないかと思います。基準がある世界の判定は機械の方が精度が良くなるでしょう。その基準自体を決める感性の世界に影響を与えるのが美しさです。VARを導入するルールの元になっているのはサッカーとはこうあるべきだという公平性を求める倫理観だろうと思いますが、それは美しさに繋がっていきます。では美しさはどう決まるのかというと、これはなかなか難解なことなのだろうと思います。

コレクションと資本主義という本を読みました。この本の中で、ヨーロッパにおける美術館は美術品の蒐集(しゅうしゅう)を行いそれを陳列することで、ある種の美の基準を決める役割があるそうです。確かに新聞テレビの編集ですら大きな影響力があるのに、世界に向けて圧倒的な品数がある中で何をどこに陳列するかを決められる影響は相当に大きなものです。美しさの基準決めですからあからさまにはもちろん行えませんが、いろんな形で世の中に浸透していきそれが閾値を超えると美しさの基準として受け入れられるのだと思います。

決められた基準に従って公平さを決める役割は機械に譲るとして、その基準を決める価値観、何を美しい行いとするかについては人間同士の別の戦いがまだまだ広がりそうです。むしろその方が本質的なルールの戦いということになるのかもしれません。

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