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イエスマンと素直な人との違いは、感じているかどうかではないか

長文ファンの皆様おはようございます。

成長する人の素養を見抜く際に「素直さ」をあげる人は多いです。一方、言われたことだけをやるイエスマンは成長しないとも言われます。では素直な人間とイエスマンの違いはなんでしょうか。

端的に言えば「やりながら、感じているかどうか」だと思います。

素直な人もイエスマンも言われた通りやる点では違いはありません。ですが、それをやり終わった後にどうだったかと聞くと素直だけれどイエスマンではない人は、自分なりに感じたことを話します。

振り返りは、まずその人の中に感じているものがなければ行えません。やってみてどうだったかを自分に聞き、それに答え、さらにそれを要約し、言葉にすることが振り返りです。

その最初の起点である感じるものがなければこのプロセスを始めることができません。

だったらそもそも言われた通りやらなくてもいいのではないかという疑問が浮かびます。優秀な人はそれでいいのだと思います。勝手にやってみて、勝手に感じ取り、勝手に振り返って、勝手に学びます。

しかし、このプロセスが回り始める人は、自分から主体的に動き、さらにそれなりに良い勘所を見つけるぐらいには賢さがあります。

主体性がない人は行動が少なく経験自体が増えないか、賢さがなければ良い場所を見抜けず無駄に時間をかけてしまいます。

言われた通りともかくやってみることは、先人の経験から集約されたそれなりに確からしいプロセスを一旦経験できる点で、効率が良いのだと思います。もちろんそうではないものもありますが。

イエスマンと素直な人の着目点の違いは「きちんとできているか」と「どうなっているのか」だと思います。

きちんとできているかどうかに着目すると、プロセス通りできているかに注意が向きます。

一方でプロセス自体に興味を持つ場合は、そのプロセスの構造と、それが行われるべき理由に注意が向きます。

そうすれば自ずと興味は外部にも向かい全体の中で自分がやっているプロセスの影響を考えるようになります。

意味は範囲によって変化します。個別で切り取れば無意味に思えるものも、全体の中では意味を持つことがあります。

イエスマンは突き詰めると意味に興味がありません。素直な人との違いは、そこだと言えるかもしれません。

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