ヒーローとヒールはそれほど動機は変わらないのではないか
映画ジョーカーでは、精神疾患を抱えた辛い境遇の男がジョーカーに変貌して様が描かれています。理解し難い加害行為を行う人間の境遇を振り返ると、最初に被害者という立場があったことは少なくありません。
世の中には人を助けるヒーローもいますが、同時に人を傷つけたり、または社会を嘲笑うようなヒール役もいます。しかし、心の奥底をのぞいてみると動機が変わらないことがある、と私は考えています。
人助けをやってみるとよくわかりますが、あれほど心が満たされることはありません。多くの場合はただ助け合っているだけですが、人助け行為にハマることもありえます。人を助けたくてしょうがない(過剰に)人はどこかに心の傷を抱えています。
自分という存在を認識させ、自分を求めてもらいたい、という欲求は誰にでもあります。そのような欲求が絡み合う場合、人助けをする行為の中に相互依存が潜みます。助けられる側も助けてくれる人に依存しますが、助ける側も助けられる側に依存します。
しかし、この動機がヒールに転ずることも可能です。というよりも、それは出会い一つで決まるように思います。自分の最初の成功体験が、人助けであったのか、それとも社会を害する行為、権力に対抗する行為、社会のルールの隙間を縫う行為だったかは、それほど違いがないようにも思います。
もちろんただサイコパス的な邪悪さを持った人もいるでしょう。しかし、どこかに憎めなさを見たときに、この人の分岐点はどこだったのだろうかと想像せずにはいられません。反対に、ヒーローの中に邪悪さを見たとき、この人はジョーカーであったかもしれないと思わずにもいられません。
人生はある役割を演じているに過ぎないと考えることができますが、その役割配置は案外とほんの小さな出来事で決まっているようにも思えるのです。