見出し画像

癇癪と創造性

私は幼少期から少し癇癪を起こす癖があります。幼少期から何度か爆発するうちに、だんだんそ癇癪を起こしている自分を観察するようになりました。それである時から、癇癪を起こす瞬間とアイデアが浮かぶ瞬間の感覚は似ているのではないかと考えるようになりました。衝動がうちから湧き出てきてそれに自分がハックされる感じです。

自分の体験を説明すると、自分の中にすでにあった何かと何かが無意識下で偶然結びつき、その結びついたものが意識に上がってきてそれに気づいた自分が興奮し、その興奮に全身が覆われる感じです。癇癪の時は怒りの感情が主なのですが、面白いことに今この瞬間に何かが起きて怒ったというよりは自分の中ですでにあったものが結ぶ付き合ってたまたま今感情が爆発したというのが近い感覚です。アイデアが浮かぶときはそれが好奇心に変わります。でも感覚はそれほど違いません。どちらも「すでに自らの内にあったものが表に出てきた」感じです。

これは怒りっぽいともまた違っていて、ずっと怒っているというよりも、突発的に感情が爆発し、しばらくすると驚くほど平常に戻るような感じです。朝のある時間だけ混雑する駅のような感じで、平時に戻るとすっかり忘れてしまったりします。アイデアが浮かぶときも似ていて、平時に戻るとあのアイデアが消え去ってしまうので、必死で浮かんでいる間に掴もうとして、私の場合はそれを言葉にしている感じです。選手時代は身体で表現していました。

今回の明石市長の件を見て、またuberを創業したカラニックやイーロンマスクなども、癇癪の振れ幅が大きい方なのではないかと想像しています。それはイノベーティブで突破力もありますが、社会の枠を逸脱する可能性もあります。あれさえなければと言われるその特徴がその人をその地位まで押し上げた原動力になっているという、コインの表と裏のような感じでしょうか。

問題は自己抑制しすぎるとそのアイデアが浮かぶことも一緒に抑制してしまう感じがすることです。私は選手時代感情的で問題がある選手でしたが、落ち着いてきて改めて思うのは、あれだけおかしかったから世界に近づけたということです。正気になった今どうしてあんなことができたか自分でもわかりません。

この辺りがもう少し理解できると創造性とは何かが理解できそうな気がしています。社会というものはここ最近で生まれた人工物ですし、社会規範も人工物で、時代と共に変わり続けています。アイデアには本来倫理はなく、後から社会規範に合わせるものだろうと思います。

私の仮説では社会の文脈から切り離された自分の文脈の中に急に入り込んでしまい、自分の中で結びついたものが爆発すると、社会の文脈からずれたものが出てきて、それは優れたアイデアであるかもしれないし社会規範の逸脱でもあるということかもしれないと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?