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自由と責任

自由とは何かを考える時、責任について考えることは避けられません。責任の定義を調べると
「その行為ならびに行為の結果に関して、法的または道徳的な責任が行為者に帰せられる」
という文言が出てきます。個人の自由な判断、行動に対して生じた結果を個人に帰属させるということです。

私たちの社会は個人には自由な意志があり、その結果生じたことは個人が責任を負うという前提で作られています。その場合意思決定と責任アウシュヴィッツの所長であったアイヒマンの裁判を見たハンナアレントは、ひたすらに私は命令されたことを行いましたと繰り返す様子を見て「凡庸の悪」と名づけました。意思決定から逃れ自由を放棄し、ただ命令に従うことが20世紀最大の罪を犯したのだと解釈しました。

我が国は数十年前に全体主義に染まりました。当時のイギリスの諜報部隊が大変興味深い分析をしています。
「日本は全体として規律を持って戦っている。しかし驚くべきことにどう考えても一体誰が指示をしているのかよくわからないのだ」
河合隼雄さんが「中空構造の日本の深層」という本で日本の中心は空であるという大変鋭い分析をされています。

では、わかりやすい解釈として日本人は個人がないから、全体主義になりやすく故に責任の所在が曖昧であるという整理でいいのでしょうか。

「森を見る東洋人、木を見る西洋人」という本で、西洋と東洋の見方の違いが描かれています。一人の若者が犯罪を犯しました。調べてみると彼は幼少期大変劣悪な環境で育ちました。その事を知って罪を軽減すべきと考える人は東洋で多く西洋では少ないという結果が出ました。つまり東洋(主には東アジア圏)において、個人の自由な行動の結果であっても環境の影響を大きく捉えているという事です。

例えば私が昨日喧嘩をして相手に殴られてしまったとして、この傷害事件はどの程度あいての責任なのでしょうか。殴られる前に私が挑発をしたのがトリガーだったのかもしれません。いやその前に店長が勧めてきたテキーラが冷静な判断を失わせていたという点で、店長にも少しの責任があるかもしれません。いや三ヶ月前に理不尽な理由で会社を首になったことが原因で、その判断をした上司にも責任があるかもしれません。いや、そもそも彼の幼少期に暴力を振るっていた父親の責任もあるかもしれません。

一体どこに本当の責任があるのでしょうか。個人であることは間違いありませんが、ビリヤードの玉突きのように遠くから影響がやってきて最後のひと突きが彼だったということはないでしょうか。

でもそれを考えすぎると、今度は自由な私が疑わしくなります。私たちは周辺の環境の影響によって受動的に反応しているにすぎない存在なのでしょうか。「選択したと思っているあなたも環境の影響によって選択させられているにすぎない」のでしょうか。そのような考えは罪からは免責されますが、意思を持って自分の人生を生きているという実感は得られません。

私たちは自由であり冷静に自分の意思で判断をしているという前提に立ち、社会のルールは作られています。しかし、科学的にも自由意志の存在は危ぶまれています。もし自由な意志が個人にそれほどないのであれば、一体責任の所在はどこに置けばいいのでしょうか。

私はスポーツの定義を「身体と環境の間であそぶこと」としています。あいだとは関係性であり、関係こそが豊かなのではないかと考えています。

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