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左右と個人

息子はまだ右左ということが理解できていません。そこの道を右に曲がってと言っても右か左かがよくわからないのです。同世代と比べても比較的言語の習得が早かったと思うのですが、上下前後はわかっても右左の概念の習得には時間がかかっています。ふとこれは右左という概念が人工的だからではないかと思うようになりました。

いや、人工的というなら全ての言語は人工的ではないかというのはまさにおっしゃる通りなのですが、言語が生まれる前から生存に重要かつ自然に認識されているようなことを言語で表現し理解することは比較的容易なのではないかと思います。一方、人間同士のコミュニケーションのために生まれた言語、概念ほど理解が難しいのではないかと息子を見ながら考えています。

言語に詳しい方であればよくご存知ですが、右左を定義することは難しいと言われています。辞書を見れば私が東を向いているなら南側のことが右であるなどと書かれていますが、しかしそれは方角の説明に自分の向きを加えただけとも言えます。

右左という概念を持たない部族がいます。この部族を対象にして行った実験で、目の前に左からコップ、紙、はさみの順番に並べてあるものを、180度真後ろを向いて同じように再現してくださいというと、左からはさみ、紙、コップと並べます。まるで上空から眺めているように物の位置を把握している可能性を示唆しています。言葉が認識を作ったのか、認識が言葉を作っていったのかはわからないのですが、少なくとも言葉と認識は関係していなくはないということがよくわかります。

私は右左は、結局のところ個人という概念に行き着くと考えています。「私」から見て右であるわけで、絶対的に右というものが存在するわけではありません。「私」がいなくなれば右左は消滅します。逆に右左を強調すれば同時に「世界を私から見る」が強調されるのではないでしょうか。右左という世界の分け方を強調して子供に伝えていくことで子供に「私」という感覚を身につけさせることにもなります。なにしろ私の位置と私が向いている方向なくして右左は存在し得ないのですから。インディビジュアルな個人はどこから生まれるのかという問いに対し、こうした日常言語から生まれているかもしれないとは言えないでしょうか。

なぜこんなことを思っているかというと、左ってのはお茶碗を持つ方でと言った私に「友達には左利きで左で箸を持つ人間がいるが、彼の左右は逆なのか」と言い返してきた息子を今朝送り出したからです。みなさんおはようございます。

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