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自立心

現代の日本の課題を集約すると、日本人の「自立心の無さ」から来ているのではないでしょうか。そもそも日本人の気質だというご意見もありますが、幕末や戦後など急激に社会を変革した人々がいた時期があったことを考えると、条件さえ揃えば自立心は生まれ得るのだと私は考えています。ではどうすれば自立心は生まれるのか、またそもそも自立心とは何かを考えてみたいと思います。

自立心の定義を私は「自らの頭で考え、自らでリスクを取り、自らの意志と力で人生を切り拓くこと」だとしています。実はもう一つの定義もありますがそれは後ほど。自立心はまず自分の身を自分で守るということが前提になります。混沌とした時代では、みんなと同じ行動をしていても身が守れません。そうした局面では、自分の頭で考えて、勇気を持ってリスクを取り、決定し行動することが大事です。しかし、こんなことはいきなりできるわけではなく、練習が必要だと思います。

自立心は小さい時から自分で考えさせリスクを取って決定することの繰り返しで身に付くというのが私の考えです。ここで大事なポイントは「リスクを取る」というところです。リスクがあるということは一定の確率で当然何かを失います。不思議なもので、みんなで同じ行動をとりながらみんなで同じくらい失っている時に人は自分が何かを失っていると感じにくい性質があります。周辺との比較で自分の立ち位置を測っていて、みんなで沈んでいれば特に変化が起きているようには感じないからだと思います。

グランドキャニオンは素晴らしい風景が広がっていますが、崖の淵の柵は驚くほど小さく低いです。自分の不注意で一歩踏み出せば本当に転落できてしまいます。安全と危険の境目が誰かによって決められているわけではなく(もちろん決めてもいますが)、自らで考え判断しないと本当に死んでしまうことがよくわかります。

以前子供たちと遊んでいる時「この木登っていい?」と聞かれたことがありました。許された範囲で行動するということが染み付いているのだと思います。子供たちの身を守るために、全体の秩序を保つために決められた範囲だけで行動するようにしつけることは大変有効です。しかし、問題なのは実際の社会はそうはなっていないということです。

例えば、別に違う国に住んで商売をしても、会社を辞めてもスタートアップを始めてもいいですし、学校をやめてもいいし、社会に出ている人が学校に入ってもいいわけです。こうしたほうがいいということが法律で書かれているのではなく、こうしてはいけないということが書かれているだけです。しかも、禁止されている範囲なんてほんの一部です。

木登りをするような自然の中にいても見えないルールの範囲で行動をしていて、そのまま大人になっても見えないルールの中で生きているならば、実は一度も自立心を持って自分の人生を歩んだ感触すらない人もいると思います。自立心を鍛え感じる機会はいつもレールから外れたところにあります。なぜならば日本のような同調圧力が強めの社会では、リスクを取る感覚とはみんなと違う行動を取る感覚がかなり近いと思うからです。

一方、自立を考えていくと、人間は一人では生きていけないことに気が付きます。文明は誰かの手によってつくられ、繁栄は交易によって成立しています。自立心の第二の定義は「依存先の適切な分散」です。どんなに自立心がある人も、これがなければ生きていけないものにコントロールされます。世間の賞賛が欲しい人は賞賛に、薬物が欲しい人は薬物に、安心が欲しい人は安心にコントロールされます。何かにコントロールされている時点で自立とは言えません。依存先を適切に分散させることで、何か一つにだけ依存しなくてすみ自分を自由に扱う範囲が広がります。

どうすれば日本人が自立していけるのか。しかし、そんなことを考えなくても安心安全を保つコスト自体が捻出できなくなり、みんなと同じ行動を取るとどんどん追い込まれるような状況が訪れ、強制的に自立心を求められる時代が来るのかもしれません。「自らの頭で考え自らの身を守り、自らの意志と力で人生を切り拓かざるを得なくなる」時代です。大変ですが、個人の可能性が開花する時代とも言えるのではないかと私は考えています。

良い社会とは、自立心を持った個人と、依存が絡み合い厳しい状況の人を助け上げるようなコミュニティがある状態だと思っています。日本人が自立心を持てば、日本のさまざまな課題も解決の糸口が見つかるのでは無いかと考えています。

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