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私たち同士の対立を和らげ、穏やかで大きな私たちを作るにはどうしたらいいのか

長文ファンの皆様おはようございます。

個人が自由になる時代は「私たち」が分散する時代だと思います。小さな私たちができれば、気の合うコミュニティができます。しかし、同時に利害調整が複雑化し大変になります。

以前クロアチアのドブロブニクという街で、内戦に巻き込まれた散髪屋さんのお父さんにインタビューをしたことがあります。お父さんは「我々」と三回言いましたが、それぞれ違う枠組みでした。一回目は、クロアチア人、二回目は爆撃時に街にいた人(ボスニア人含む)、三つ目は宗教(確かカソリック)だったと思います。

「あいつら」と言うこともよくありましたが(ちょっと口が悪いけどいい人そうな人でした)、どの我々かによってあいつらもまた変化していました。しかしこれはまた健全でもあります。人間は複層的です。

しかし、私たちが複層的になると、アイデンティティもまた確定しにくくなります。一方一つの我々だけで括れば、自分の中で利害がはっきりします。敵認定もまた容易になるわけです。

散髪屋のおじさんは、爆撃時の前後従業員であったボスニア人に対しての共感と、対立しているボスニアという国の二つの狭間で葛藤を抱えていました。しかし、この葛藤こそが人間らしく大事なものだと思います。

同心円上にみれば、万物があり、地球上の生物があり、人類があり、文明圏があり、国家があり、地域があり、家族がいて、私がいます。どのレイヤーで見るかによって利害がぶつかる相手が変化します。私は〇〇だと確定した途端、利害がぶつかる相手もまた確定します。

人間は利害でのみ繋がっていません。正確に利害を理解できる人はそれほどいないのだと思います。代わりに我々は物語で自分達を定義します。どのような文化も宗教も始まりの物語を持つのはそのためだと思います。

大きな私たちは窮屈です。しかし、それがなくなると対立軸が多くなりすぎて全体の利益が損なわれます。その対立軸が固定化され、過激化してきている印象があります。

おじさんはインタビューの途中にこう言いました。
「だけどあいつとは毎朝一緒に荷物を運んで朝ごはんを食べたんだよ。」

生活を基盤としてつながった「私たち」の力はやはり大きいと私は思います。人類は誰もが仲間を欲し食べて寝ている。文字と頭だけで考えると、いつの間にか小さな世界に囚われてしまうように思います。毎日長文を書くという矛盾を抱えながら

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