知らないことは罪なのか
長文ファンの皆様おはようございます。
「知らないことは罪なのか」に対して私はとても興味を持っています。罪とは何かは大変深遠な問いです。東京裁判では、人道的罪という判決が下されましたが、罪刑法定主義からは反しているという指摘がありました。
罪刑法定主義とは「犯罪とされる行為の内容、及びそれに対して科される刑罰を予め、明確に規定しておかなければならないとする原則」のことです。
知らないことが罪だとするには、事前に何が罪なのかが明記されている必要があります。しかし、時に大きすぎる罪や、関与者が多すぎる時には、罪刑法定主義がうまく機能しないことがあります。
罪刑法定主義が適用されない世界では、事前に何が罪かを知ることができません。言い換えるとどの行為が事後に罪として裁かれるかわからないということです。
考えに合わせると、過去に罪が定義されていないために何が罪なのかを知ることは万人に不可能であるという結論になります。
さて次に知っているという時、私たちは本当は何を知っているのでしょうか。
日本の歴史を授業で習いますが、それは本当に歴史を知っていることになるのでしょうか。日本史の専門家の方と議論をしましたが、大まかな部分では合意されていても、詳細の部分では一致していませんでした。それはそうだと思います。何しろその時代を生きていないのですから。
科学者はこの謙虚さを持ち合わせています。あなたは歴史を知っていますかと質問された時に、どの程度の深さのことを言っているのかを注意深く観察し、深い意味で聞かれている場合、私が知る限り「歴史を知っている」と答える人はいません。
深く考える人ほど、知っているということに警戒感を覚えます。
仮に全ての罪が事前に書かれている世界があり、それを完璧に知っている人がいて、知らないことは罪であるとした状態を想定してみましょう。その時、おそらく知っている人は凄まじい力を手にすると思います。
何しろほとんどの人間は、罪とされる行為の全てを記憶することができず、知っている人に頼らざるを得ないからです。
楔文字は、文字によるルール制定の始まりと言われていますが、当時楔文字が読めることはエリートの条件でした。読めない人は読める人を頼るしか、何が罪なのかわからないためです。
弁護士の人数が増え費用が増えることと、ルールが増すことは相関するというデータを見たことがあります。
知らないことが罪であるならば、知っていなければ罪を犯すことになります。しかし、知ることが増えれば増えるほど、エリート以外の人は、無知が故に罪を犯し、裁かれ続けることになります。
罪は知ることで回避できるのか。本当の意味で私たちは知ることができるのか。知る人(エリート)に力が集約され、知らない側を裁く構造は本当に良い社会をもたらすのか。
私は知っているという時、何を知っているのかに自覚的であることは大切だと思います。
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