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弱さが増えすぎたとき、社会はどう変わるのか

長文ファンの皆様おはようございます。

希少なものは丁寧に扱われて、多ければさほど気にされないのが世の常だと思います。「弱い」ことは守られる対象であることが多いですが、最近「弱い」が増え、守られなくなってきたと思っています。

弱さは相対的なものです。人間は個体を動物と比較すればあまりにも弱い皮膚を持ち、武器がなく、貧弱です。 人間というグループで考えます。弱さとは偏差値的なものだと考えることができます。

中央値から上にあるものを弱いと見做せば、それはそのグループ全体が他のグループと比べて弱いということでしかありません。全体の7割が弱いなら、それはそのグループにおいては普通であり弱さとは認められません。ですから常に弱さは全体の一定比率を上回ることができないのだろうと思います。

リソース配分の問題もあります。子供のツアーに必要な大人の数は、大人のツアーよりは多いわけですが、それは守らなければならない人数と局面が多いからです。大人の数が足りなければ子供への危険は増します。 つまり、弱さが一定量を超えれば、希少性もなくなり、守る側のリソースも足りなくなります。

では弱さはどうなるのか。私は弱さの転換が起きると思います。それを弱さだと定義するためには価値観が必要ですが、その価値観の転換です。弱さと才能は紙一重であり、強さと弱さもまた表裏一体です。弱さ自体をなんとかするのではなく、弱さの定義自体が変わってしまうと考えています。

ふと、松岡正剛さんの「フラジャイル」という本を思い出しました。弱さとはなにか。弱さはなぜ壊せないのか。を哲学した本です。


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