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言語化とはなにか

長文ファンの皆様おはようございます。

さて「言語化」という表現がありますが、しかし具体的にこれは何を指しているのでしょうか。言語は何かをはっきりと相手に伝えることに向いていません。現実の情報量に対し、言語はあまりにも情報力が少なすぎるためです。

私たちがもし「東京駅」を過不足なく相手に伝えようとするなら、「東京駅」そのものが必要になります。到底そんなことは不可能なので「東京駅の地図」を使います。言語はよく言われるように「現実の地形」と「地図」の関係に似ています。上から見た位置が大事なら平面的な地図ですが、高低差が重要ならそれが書き込まれ、湿度温度が大事ならそれが書き込まれます。しかし、全ての情報を入れると膨大になりすぎて伝える方法もありませんし、受け取る人間の認知も追いつきません。

つまり、思いっきり現実の情報を刈り込み、重要だと思われる軸に従って記述するわけです。まるであまりに複雑な現実社会をそれぞれの科学者が自分の専門分野の記述方法で切り取るようにです。私たちは世界をそのまま捉えているのではなく、記述可能、認識可能な方法で捉えています。

言語化とは正確に伝えることではありません。言語はそれに向いていないからです。しかし、「言語化」は一般的にシンプルでわかりやすいことが良いとされています。「言語化」は驚くほど多くの情報を捨てることで成立しています。ほとんど現実とは関係ないぐらいの情報量に絞り込まれます。

情報量が少ないから、他人とは言葉ではわかりあえないと言われることもあります。しかし、そもそも私たちはそれほど明確に世界を認識しておらず、記憶もしていません。

つい私たちはスマホ動画で撮影したような記憶を持っていると考えますが、実際に私たちが記憶しているのは曖昧な印象です。しかも記憶は勝手に無意識に編集されます。その時の状況を詳細に説明されて「ああそうだった」と感じるのは現実を具体的に表現されているからではなく、その状況の重要だと考えられる側面を言い表しているからです。または誘導されてそう感じている可能性もあります。

これはとても大きなポイントです。「言語化」は必ずしも現実に沿っていなくても構わないのです。

「言語化」とは、あまりにも多い世界の情報量の中に、そして広大な人々の無意識の世界に、小さな小石を投げ波紋を生み出す作業に似ています。

私たちは現実を認識しているのではなく、現実をシュミレートしたことを認識しています。良い「言語化」はその人の着目点を変え、シュミレート自体を変えるという点で、「その人の現実」をも変えてしまいます。

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