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それがあると信じること

最近ローンを申請して落ち「なんだよ」と不貞腐れていたのですが、改めて誰にお金を貸して誰に貸さないかを決めているのが信用だとすると大変興味深いと思いました。一体何を持ってこの人は大丈夫きっと将来的にお金を返してくれると思うのか。

そもそも私たちの生活の基盤となっている国というのが共同幻想によって、つまり「確かなものがある」とお互いが信用しあうことによって成立しています。例えば私が赤信号で渡ることはルール違反です。ルールを破れば司法が裁きます。逃げれば身柄を拘束されます。その強制力を行使するのは警察力があるからです。またその警察が強制力を行使することを許容しているのはそういうルールで運営されていると市民が合意しているからです。それほど発展していない国で警察に十分な給与を提供できない国では抜け道がいくらでもあることは海外在住者はよく知っています。急に止められてなんで通してくれないないんだろうと悩んでいたら結局賄賂の話だったのかと後でわかることはよくあります。

国が確かでなければ、司法が確かでなければ、警察力が確かでなければ、この社会の前提が確かではなくなります。ホッブスは市民自らが自らの身を守るために差し出し契約を結んだ共同体(国家)のことをリヴァイアサンと呼びました。しかし、ありえないことでしょうが、国民全員がある日ある瞬間に一気に共同幻想を信用することをやめれば(もちろん警察官も含まれます)、警察が機能しなくなり、司法も機能しなくなります。

どの国のリーダーも国の成り立ちと正当性を大変気にします。どの国家も起源の物語を持っています。なぜそのような物語が必要とされたのか。それは、それこそが共同幻想のスタート地点だからだと思います。それがなければ「私たち」という感覚(共同幻想)を持つことができず、秩序が成立しないからだと思います。

なぜ起業家に物語を語り人を信じさせられる能力が求められるのかというと、起業というのが何もないところに信用を創出し、それにレバレッジをかけて膨らませる手法のことだからだと思います。信用を創出する能力と、信用を使って展開していく能力は違う能力なのではないかと私は考えています。信用を使って展開する世界は、既に何かがそこにあるわけですから可視化して人に説明することも容易ですが、最初の信用創出はそうはいきません。人は物語を生きています。その人の物語を書き換えたり、またこちらの物語に引き込んだときに人は動きます。人は物語を生きているということがわからなければ、人の心を動かすことはできません。

私たちが日常的に自分の価値観であると思っていたり、人類普遍の当たり前のものであると思っているものも、共同幻想の産物であることも少なくありません。信用が複層的になり、多くの人間が信じることで相互信用が成り立ち、長い時間かけて歴史ができたとき、信用は常識となり社会のありように組み込まれ、社会自体を作り替えていきます。

以前、山に登ったときに登山道の真正面に身の丈三倍ぐらいありそうな巨大な石がありその真横を抜けていく、という場所がありました。そして巨大な石の手前に足を置いて靴紐を結ぶのにちょうど良い形の石がありました。私はその巨大な石を眺める目的もあって、少し離れたそうですね20mぐらい下がったところで座って休んでいました。後ろからやってきた少し年を召した女性が靴紐を結ぶために足を置き靴紐を結んだのですが、それがちょうど頭を下げて大きな石に対面して拝んでいるように見えました。その人が立ち上げあがり歩いていって20秒ぐらいした後でしょうか、下から外国人の一行がやってきて、辿々しく大きな石の前でお辞儀をしていきました。その後しばらく大きな石の前でお辞儀をする人が続きました。

私は信用や権威の本質は中心ではなくそれを囲む側にあると考えています。興味深いことに囲む側はそれに無自覚です。

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