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普通に考えること

余裕がなくなってきて、時代が大きく変化しそうなタイミングになってきたと感じています。こういった変化が激しい時代ではどのようなことを考えて行動するべきか迷いますが、私は普段からもそうですがこういう時代は特に「普通に考える」ということを大事にしています。

「本来はそうあるべきなんだけど、色々あって無理なんだよ」「普通に考えればそうなんだけど、仕組みがそうなってないんだよ」ということは社会の中に山ほどあります。社会は複雑ですからある一面だけからみて当たり前に見えても違う側面から見ればそれなりに存在理由があることも多々あります。また、このようにわかっていながらできていないことはまだ良いですが「みんながそう考えているから誰もがそうしている」ということもよくあります。こちらは「普通に考える」ことからずれていることすら気がつきません。

「普通に考える」とはどういうことでしょうか。特に複雑な計算式を持ち出さなくても、独特の視点で見なくても、ある情報を集めて当たり前のように普通に考えればこうだよねということです。そんな簡単なことと思いますが、不思議なことに長い間その業界に居続けるとできなくなることがあります。

では「普通に考える」ことからずれていることはどう捉えればいいのか。それは非合理な状態で、どこかに負担がかかっていたり過剰に費用がかかっていたりする状態と定義できると思います。ですから裏を返すと豊かな時にはこの非合理な形が受け入れられやすいです。非合理な形はいきなり非合理なのではなく、ある時代にはとても合理的で意味があったものが時代と共に非合理で意味がなくなっていることが多いです。時間が経っていれば風習や常識やこだわりの形になっていたりするので余計に変えづらくなります。ところが、その現状維持が耐えきれなくなるタイミングがあります。それが危機の時です。

要するに余裕がなくなり、そうも言っていられなくなるわけです。そうなるともうなりふり構わないので、無駄を削ぎ落とし本来ある形を模索する議論になります。そしてその時には難しい理屈を持ち出さなくても「普通に考える」と、この方が良いのではないかという言葉が説得力を持ちます。普通に考えた結果の形の方が自然で負担も少なく継続可能なことが多いからです。

「万物は母なる流れに還る」というのがタオイズムの基本的な考えです。私も万物は自然に還ろうとする性質を持っていると考えています。そういう意味で私にとっては人間とは何かを理解することが、「普通に考える」ことの最も根幹の土台になっています。人間は結局人間らしさに勝てません。人間らしさとは、動物としての本能と、社会制度と、欲のことです。

変化が激しく余裕がなくなる時代に、我々個人ができることは「普通に考え」、未来のあるべき位置に先に移り住んで、そこで待ち続けることだと思います。

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