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もし私たちが自分の考えが伝わることを止められないとしたら、死はどうなるのか

長文ファンの皆様おはようございます。※ネタバレを含みますのでご注意を

私は無類の三体ファンですが、三体の中に「嘘がつけない」という設定の宇宙人が出てきます。しかもテレパシーでコミュニケーションをとっている。小説の中にはない設定ですが、さらに考えを進めて、自分の考えて感じたことを自分の意思で止められなかったとしたら死はどんなふうに感じられるのでしょうか。

私たちが「自分は自分である」と確信するのは、考えていることがこの身体に閉じているからだと思います。閉じているというのはお、自分の考えていることが自らの意思で止めたり出したりできることです。

「これは口に出した、これは思っただけ」の違いを私たちは認識しています。この違いがなくなるということです。

考えだけではなく、情動(実際に考えと情動はそれほど分かれてもいない)も伝わってくるとしたら、自分は閉じたシステムではなく、周辺に開かれ常時接続されていることになり、粘菌同士の関係と近くなってくるのではないかと思います。

三体人は死に対して非常に軽い態度をとります。彼らは「一人生き残れば全て生き残る」と言います。

確かに多くの遺伝子を共有する女王蜂を生き残らせるために蜂は自分の命を捧げることを厭わないですが、それはドーキンスの視点で言えば遺伝子を残す上では最適な戦略だと考えられるからだと思います。

よく自分の感動を伝えようとしても言葉で伝わりきらなくてもどかしい時がありますが、しかし、伝えてもわからないということが他者であることを成立させてもいます。

もし私たちのコミュニケーションが粘菌のようであったなら、その時、自分の死はどのように感じられるのでしょうか。

私たちが死を恐れるのは、意識経験の消滅があるからだと思います。唯一無二の閉じられた系である私が世界を経験しており、死は実質的に世界の消滅になる。

生きている間全ての経験が他者と共有され続けるなら、死はあくまで全体のある一部分の消滅となり、個人にとっての(個人があるかどうかも怪しいですが)衝撃もかなり小さくなるのではないでしょうか。

自我があるからこうして私の人生を生きているわけですが、時々私が全体にそのまま溶けてしまい、自我から解放されたらどんなに自由なんだろうと思います。

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