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人間はなぜシンボルが好きなのか

長文ファンの皆様おはようございます。

人間はなぜシンボルが好きなのでしょうか。そしてシンボルを生み出してきたのでしょうか。国旗、十字架、ロゴ。そして言語もまたある情報を記号的にまとめたものでもあります。

世界はなぜシンボルでできているのか。これをひっくり返してみると、そもそも人間だけなぜシンボルを重視するようになったのかになります。なぜ人間の言語だけこれほど複雑なのかにもつながる話です。

数日前意識研究のカンファレンスに出た時に、ある研究者の方が人間がシンボルに惹かれるのは、後天的ではなく先天性のものではないかというスピーチをされいくつかエビデンスを示されていました。

例えばいくつか並んだ電球があるパターンで光った時(右左を繰り返したり、ぐるっと一周まわったり)と、全くランダムに光る時では当たり前ですが覚えやすさが違います。ところがチンパンジーは、パターン的であっても、ランダムであったも記憶の精度に違いはありませんでした。

そしてこれは赤ちゃんであっても大人であっても似た傾向にありました。

私はそのあと「チョムスキーの生成文法をサポートするような結果だと思いますか?」と質問しました。

「それはちょっと飛躍があるかもしれないけれど、なぜ複雑な言語を獲得したかはこのことである程度説明可能かもしれない」という回答でした。

私は人間は世界を記号的に捉えていると考えています。意識と本質の中で井筒さんがイスラーム哲学の三つの見方を示しています。そこにある花を花としてみる見方(記号化)。そこにある花を花という言葉を介さないで見る見方(非記号化)。そこにある花と私は唯一無二の一回の出会いとしてみる見方(縁起的)。

西田の言う純粋経験はこの三つ目に近いのではないかと考えています。ゾーンもまたそうです。

講演者はそもそも人間が記号的に世界を捉えることを、学習ではなく生来の性質として行っている可能性を示唆していると私は捉えました。

宗教の捉え方はいろいろありますが、宗教は「世界の理を示すシンボル」と考えられないでしょうか。

人間はシンボルが欲しい。世界はあるパターン(法則)で動いていると思う性質がどうしてもある。科学がそれを解き明かしていっていますが、あまりにも複雑で捉えきれない。そしてそれがどうも苦しい。

結局のところ脳のキャパシティの話なのかもしれません。世界を理解することはできるかもしれないけれど、あまりに情報量が多いので、世界でも限られた人しかアクセスできない。そうだとしたら、多くの人は救われません。

あるシンボルを信じ、そのシンボルの中で、そのシンボル自体を生きることで、人は安心感を得る可能性はないでしょうか。

人間を幸せにする上で、シンボルとは何かはとても大事な話題だと思い、最近はずっと宗教を考えています。

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