範囲と思い込み

思い込む力というのは私の中で常に大きなテーマになっています。正しさは常に範囲を必要とします。陸上競技で勝利するという範囲では速く走るために努力することは正しいです。一方人生でいいことかはわかりません。長く続け過ぎれば人生の機会を失います。さらに人生の成功という範囲がなければ努力がいいことかもわかりません。さらに言えば人権という概念も個人が大事であるという範囲がなければ成立しません。

努力して成功するのは正しいのだと思って言い切って他人に勧め切れる人は人生の成功の範囲の世界で生きている人です。それは狭いかもしれませんが、しかし強くもあります。これをすることが正しいのだと言い切れる人は躊躇がありません。躊躇がない人は強いです。思い込むこととは範囲を固定するということです。思い込める人は範囲が固定されやすい人です。

しかしお互いの固定した範囲があまりにもずれている場合に対話を成立し難くするという問題もあります。宇宙人と対話が成立するのかという問いは、言語の問題だけではなくあまりにもずれた範囲で生きている可能性があるからです。私たちはいざというときは自分の四肢を切り落としてでも、本体の生存を優先します。同じように種全体の生き残りが最上位に置かれたような範囲を生きている宇宙人であれば、簡単に個を切り捨てますしそれを受け入れもするでしょう。範囲を固定した人は違う範囲の人が想像できません。これほど大きなズレはなくても、他者の対話を見ていてああ範囲が違うなと思うことは多々あります。

一方で、範囲をもし解放するなら全てに意味も価値もなくなります。意味や価値はあるものではなくて決めるものです。川が流れて途中の石を転がすかもしれませんがそれを気にする人は多くないでしょう。引いてみれば人間社会で起きている出来事もそのようなものかもしれません。そういう意味では主観的であるということ自体が自分自身をある範囲に押し込めることで、だからこそ人の胸を打つのかもしれません。

宗教が大事なのも、理念が大事なのも、多くの人間は範囲があやふやだということだと思います。経典やあるべき姿でしっかり範囲を固定してあげればあとは全て説明がつきます。説明がつかなくなるのはその範囲を拡大する時です。あるところから先を疑わず信じるという前提で一体感を醸成すれば、どのような組織も宗教的な空気を帯びます。しかし、それは範囲の固定でもあり、思い込みの強さでもあり、実際の強さにもなります。

範囲が違う人たちの間で本当の意味の対話は可能なのか。これに大変興味を持っています。

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