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人の信念は実際のところは曖昧ななにかではないか

長文ファンの皆様おはようございます。

人の信念や思想は、ほとんどの場合言葉になっています。

一般的には、考えや価値観がまずあり、それが言葉で表現されたものが信念だ、と考えられています。

他方、私は実際にはもっと曖昧でもやもやした心のありように、大まかに合致した言葉をラベリングしたものが価値観だと考えています。

例えば、スポーツや文化で分類すれば、相撲と甲子園は、似ています。神聖性、土着性、純粋性、伝統性です。その中の純粋性と伝統性を強調すると、宝塚に近くなり、純粋性と土着性だと箱根駅伝に近くなると感じます。

保守とオーガニックの結びつきは世界的にもよくありますが、それらは「昔からある、混じりっ気のない、あるがままの何か」というイメージの上にあるからだと思っています。

このような価値観は、対象と接触した時に引き起こされる心的イメージに対しての好ましさによって作られていると考えています。

ですから、対象が本当はなんであるか、はあまり関係がなく、「そのような心象が生まれるきっかけ」が大事なわけです。

どうして陸上だったのですかと聞かれることがあります。

足が速かったのが理由の一つではありますが、それ以外に「伝統的競技」「没頭する競技性」「ヒエラルキーが作りにくい」「科学との親和性」などが挙げられます。

いや、もっとシンプルに「表面的なものを嫌う」という整理で良いのかもしれません。

最近は、「ああこんな感じいいよね」程度の漠然としたものが人生のどこかで何かと結びつき、それを信念とラベリングしているだけのように感じられます。

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