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私たちは何を計測するべきか

長文ファンの皆様おはようございます。

最近、計測の科学という本を読み始め、計測について考えています。人が計測をし始めた歴史は古いのですが、それが世界共通の基準(メートル法)に至ったのは案外古く、フランス革命の時期になるそうです。

それより前は、各地域で基準が違ったり、または状況によって違ったそうです。例えば牛10頭が食べられる広さという定義だったそうで、そうなると牧草地よりも、荒地の方がおなじ1なんとかという基準でも広くなります。

さて、私たちは今あらゆることを計測していますが、計測という行為自体が「着目し、集約する」行為だと言えます。つまり、重さを測ることは、重さに着目しそれ以外のあらゆる特徴を一旦ないことにして重さに集約することでもあります。

社会を眺めると、この「何で測るか」を設定することと、その測定基準を追いかけることの二つの作業があると思います。多くの仕事は測定基準を追いかけることに費やされます。売り上げ、利益、KPI、GDPなどです。

社会全体が階層のようになっており、大きな計測基準を追いかけるために細分化された小さな計測基準があります。KPIと呼ばれたり、部署との目標と呼ばれたりします。

私は人間が努力と呼ぶものはこの二つの方向で違っているのではないかと考えています。通常は計測基準を追いかけることを努力と呼びます。しかし、計測基準そのものを定める努力の方がインパクトは大きいです。いわゆるルールメイキングでもあります。

不思議なことに人は「今自分はどこにいるのか」を知りたがります。どこにいるかを定めるためには基準が必要です。「あなたは今何位です」と言われると、不思議と安心します。そのぐらい測定は私たちの心に入り込んでいます。

着目させればそこに向かって人は走り出すわけですが、何に着目させるかが鍵です。

「私たちは一体何を測るべきか」に今興味を持っています。

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