現実は正しいという前提に立つ

人生で一つの転換点があるとしたら、現実は正しいという認識から始めるようになったことだ。確かに社会には不正義があり、不合理不条理に満ちている。それは直していかなければならないが、あくまで理想に向けて変化を促していくことであり、現実が間違えているわけではない。

以前は、本当はこうあるべきなのに現実が間違えているという認識に立っていた。この思考には問題があった。まず、現実が間違えていると感じる人が忘れている一つの観点は、私から見て現実が間違えているという点だ。この私から見た風景と同じ風景を誰もが見ているはずだという誤認が生じる。

現実が正しいという意味は、現実に正義があるという意味ではなく、一見馬鹿らしく見えるものが、ちゃんと現状認識をするとそうならざるを得ない背景が見えてくるということだ。表に出ている問題は誰の目にも見えるが、その問題を作り出した構造はあるがままを見ようとするものにしか見えてこない。

私が一番ぶれていた時代は、他人のことばかりを見ていた。こんなに努力している自分が怪我をして、そうではない選手が楽しそうに走っている。持って生まれた才能が飛び抜けた選手がいる。そんな不条理な社会は間違えているのではないか。しかし、結局一番損をしていたのは自分の人生だった。

現実は正しい。現実が間違えているのではなく、私がそれを間違えていると感じている。感じさせているのは私の価値観であり、それは一つのバイアスでもある。バイアスとは歪みであり、歪んだ現状認識から生まれる解決方法もまた歪んでいる。バイアスは取り除けないが取り除こうと努力することはできる。

現実は正しいという認識は、仮におかしなことがあってもそれがそうならざるを得なかった背景を常に探す思考をうむ。現実は正しい。ただし自分の理想は違う。そのギャップを埋めるには表面ではなく構造を変える必要がある。構造は目に見えない。構造を変えても目に見える成果は遅れてやってくる。

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