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「往生際が悪い」と、「粘り強い」は何が違うのか

長文ファンの皆様おはようございます。

「粘り強い」と「往生際が悪い」の違いについてご質問を受けました。この境目は大変曖昧で、ほとんどの使用例では、同じ状況を前向きにいうか後ろ向きに言うかの違いでしかないと思います。うまくいけば粘り強かったと言い、うまくいかなかったら往生際が悪かったと言っているに過ぎない、と言っている。

それを抑えた上で、もし違いに着目するなら、本人が継続する理由に着目すべきだと思います。 往生際が悪い人は実際のところ状況を打破しようとしているのではなく、現実を認めることから逃げ続けているのではないかと思います。

言い換えると実際には本人ももう終わっていることにどこかで気がついているが別の理由で継続している、ということです。
ではどこにそれが現れるかというと、打ち手です。往生際が悪いと表現する際、その人の打ち手があまり合理的に見えない、それをやったところで状況が打開できるとは思えないことが多いです。

もちろん追い込まれているからあまり客観的になれずそうした打ち手になっている可能性は大いにあります。追い込まれると視野が狭くなるのは人間の性です。

しかし、そうした切羽詰まった状況でなくてもなんとなく続けていることもある。往生際が悪いという印象を受ける人に質問をしていくと
「やめることなんてできない」
「悔しい」
「諦めたやつだと思われたくない」
などの返答が出てきます。

うまくいくと思うから続けているという理由が出てきません。
続けるから続ける、感情的に受け入れ難いから続ける、社会的評価に影響するから続ける、が理由になっています。この場合、自分の中での納得感以外に辞める理由がありませんからどこまでも続けることになってしまいます。

粘り強いと評される際には、これをうまくいかせたい、うまくいってほしいという希望を持っています。 だからうまくいかせるために手を打っていくので、その精度の良し悪しはありながらも、それなりに合理的です。

私の中では、「粘り強い人は対象に注意が向っており、往生際が悪い人は自分に注意が向っている」という違いで整理しています。

人間は、続けたことをただ続けて、それに理由をつける生き物です。理由があるから続けているのではなく、やめられないから理由をつけるという順番です。しかし、どんな理由であれば継続すればうまくいくこともあるので、ことは厄介です。もちろんその継続している時間を他に費やせばもっとうまくいくかもしれませんが。

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