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私のせいなのか、社会のせいなのか

長文ファンの皆様おはようございます。

今日は「あなたのせいなのか、あいつのせいなのか」です。

人間は生きていく上で社会との間に葛藤を抱えます。社会は自分の思うようにはならないし、社会は自分に侵食してきます。他者と自分であったり、社会と自分であったり。その葛藤により傷ついたり、成長したりします。

この葛藤は「もやもや」から始まり徐々に「苛立ち」や「怒り」につながっていきます。そうすると心の中でどこかで折り合いをつけないとやっていけなくなります。

折り合いをつけるとは、「この葛藤はどこからきて、どうすれば解消できるのか」というものです。多くの場合は「この葛藤は誰のせいなのか」と置き換えられます。

そこから先二つの選択肢があります。「これは私のせい」と「これは社会(あいつ)のせい」です。

前者は自分が背負い、後者は社会が背負います。友人のコミュニケーションも、大きくは二つのどちらかの態度をとります。「あなたが変わらないと」か「あなたは悪くない」です。教育とケアの違いと言ってもいいかもしれません。

「あなたは悪くない」は友人を癒します。悪いのはあなたじゃないは癒しです。自分が悪いのではないかと責めている人を罪の意識から解放してあげることは大きな癒しです。今現在の行動だけではなく、人生トータルでみないとその人の傷はわかりません。今わがままに見えても、人生トータルで社会に傷つけられてきた人はたくさんいます。

傷ついた人が水商売に居場所を求めるのは誰も「あなたが変わらないと」とは言わないからです。

社会正義は大事なことですが、社会正義で固まる集団が抱える一つのリスクは共通の敵を探している傷ついた人たちの比率が増える可能性です。私たちが変わるという方法を拒否するので、集団が変化できなくなり衰退するリスクが高まります。

一方、「あなたが変わらないと」というアプローチは辛い道です。変えられるのは自分しかいないのだから、自分を変え続けるという道です。辛いので耐えられなくなる人もいます。

そしてこれは洗脳の方法と似ています。「すべてはお前が悪い」という罪の意識と、それを許す全能で包容する存在のセットで人は心を寄せます。尋問も厳しい役割と優しい役割がセットです。

一方、毎回同じパターンで問題を引き起こしているなら、それは自分が変わるべきというサインかもしれません。自分では気付きにくいので、友人が伝えることになりますが、その友人はリスクを取ることになります。誰も耳に痛いことを聞きたくはありません。

自分が変われるかは、いざという時、「あなたが変わるべき」と言ってくれる信頼関係を築いた人がいるか、に影響されます。

どちらがいいとも限りません。個人の中でも人生のそれぞれの局面で変えていくものだろうと思います。ただ、大事なことは今私はどちらの状態にいるのか、友人は今自分はどちらのアプローチをしているのかに自覚的であることだと思います。

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