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他人を物的に扱う癖がハラスメントの背景にあるのではないか

長文ファンの皆様おはようございます。

私はハラスメントの背景に「他人を物的に扱う癖」があるのではないかと考えています。

物的に扱う癖があると、人がどのような気持ちになるかを配慮しなくてよくなります。人の心は柔らかく、同じ言葉でも、状況によって、相手によって、感じ方も変わります。

「人は物である」とすれば、物事を単純化し、仕事をする上でやりやすくなります。全員が人間ではなく物であるとするなら、感情による不確実性は減少します。

人間の心に対しても物的に扱うことが可能です。

「お金で釣る。力で認めさせる。断れない状況を作ってから交渉する。」

これは相手から何かを引き出したり、思うように動かすための手法です。相手が心から納得するかどうかは考慮に入れない点で、物的なアプローチです。ビジネスでは有効なのだと思いますが、友人に対してこれをやればまず関係は破綻すると思います。

「物的に扱っている」側はそのことに無自覚なのですが、相手はかなりはっきりと感じ取るので、大きな抵抗がそこに生まれます。

スイスの作家マックスフリッシュが移民政策に関して、こんなことを言っています。

「我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった」

これは言い換えると、「労働力のある物として想定していたら、相手は人間であった」ということだと理解しています。

根本の解決には「相手を人として見る」しかないと思うのですが、表面で解決を試みることが多いように見えます。なんでだろう、どこが問題なんだろう、と悩みあれこれいじってみても、見方の癖がある限りは解決しないのだろうと思います。

選手時代に、なぜ足が速いのかを分析するために体をチェックしてもらったことがありますが、自分が観察されている時、ふとある一瞬、自分が競走馬として見られている気分になりました。

傷つく感覚はありませんでしたが、あれが種牡馬としての品評だったとしたらまた違う感じ方だったかもしれません。または性的に魅力があるかどうか品評されていたとしたら。

人間として見る時と、物的に見る時では、「目の違い」を感じます。見られる側はその違いを敏感に感じとります。

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