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なぜあいさつをしなければならないのか

長文ファンの皆様おはようございます。

最近「挨拶をなぜしなければならないのか」という論争があり、大変興味深かったので、この問いを「個人の振る舞いは自由であるべきなのに、どうしてあいさつは(ゆるやかに)強制されるのか」と捉えて、考えてみたいと思います。

この類の問いは個人の欲をないものとすると、少なくとも議論には負けません。

私たちが所与の価値観と捉えているものに、「人は生きていたい」「人は幸せになりたい」「人は良い社会を作りたい」があります。

もし、私は生きていたくもないし、幸せにならなくてもいいし、社会がどうなってもいい。という前提に立つなら、あいさつの重要さを説くのは困難です。

実際に自分の欲は全くないものと仮定すると、この類の議論は成立しません。命も社会もどうでもいい(そんな人はいないと私は思いますが)と言い張るなら、自死をロジックでは止められないのもそのためです。

ですから、社会(私たち)は社会を構成する人たちに対し、一つの強制を強いています。例えば良い社会を作るための構成員としての自覚です。

トマスホッブスは「万人の万人に対する闘争」と言いました。社会の強制が効かない状態では、人は利己的に他者のものを奪い合うことになり、争いがありふれた状態になるだろうと。それを抑止する力としてリヴァイアサンを想定しました。

社会によって反社会的な行動の基準は若干違いますが、反社会的行動の排除を行う意思をもたない社会は存在しません。そこはロジックではなく、皆の幸福と命の安全のために「そう決めるしかない」ものだからだと思います。

あいさつをなぜしなければならないか。あいさつしないのは確かに個人の自由ですが、そのような人が増え、お互いを疑い始め、社会不安が引き起こされると、社会全体としては幸福が減少します。

私の考えでは、社会は「お互いに社会を良くしていきましょう」とする緩やかな連帯によって成立しています。

あいさつは少なくとも好意から始め敵意がなく、社会に相互信頼をもたらそうとする行為だとして推奨されているのだと思います。

個人には自由がある、全ての行為には論理的な説明が必要である、という前提は、世界を狭めて考えなければ成立しません。本当に底を抜いてしまえば、社会には善も悪もなくなります。そうすれば論理も意味も自由も幻に過ぎなくなくなります。

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