なぜ社会規範を逸脱する全ての人が裁かれるわけではないのか
「e-sportsやyoutubeが市民権を得た事で大問題になりましたが、大問題にならないとしても、公共の場での発言は、社会規範からは逃れられません。」
このような意見をいただきましたので私の意見を書きます。車に乗られる方はよくお分かりだと思いますが、高速道路で法定速度を上回って走っている車はたくさんいます。また、一時間も交差点に立って観察していると赤信号で渡る人もたくさんいます。私と同世代であれば、未成年の頃に親戚のおじさんが「おいちょっと練習だ」と正月にビールを飲まされた経験がある方もいるのではないでしょうか。
これらは違法行為とされています。しかし、多くの場合は表に出ず問題になりません。なぜでしょうか?説明するために三つの観点を提示します。
まず第一に社会が受け止められる情報には限りがあります。私たちの世界では、大きなニュースがある日に、たまたま自分の不祥事のニュースがぶつかるとほっと胸を撫で下ろします。なぜならばメディアは常に大きなニュース、人が興味を持ちそうなニュースを扱うので、相対的に小さいニュースは忘れ去られるからです。結果として社会規範を逸脱する人全てに社会が注目することは不可能で、ある程度有名な人だけに注目が集まることになります。
次に、観察者の数です。その人の言動をチェックする人が数が多いほど、社会規範を逸脱した時に見つかりやすくなります。
最後に影響力です。その人が社会的に影響力があるほど社会規範の縛りは厳しくなります。おそらくそれなりの規模の会社であればどこを見ても不倫をしている人は一人ぐらいいるのだと思いますが、それがニュースで扱われることはありません。影響力がなく人が興味を持たないからです。
以上を踏まえ冒頭の疑問に回答すると
「公共には居酒屋からSNS、新聞の社説まで幅があり、そこで問題になるかどうかは、観察者の数と影響力の大きさで決まる。故にさほど多くの人に見られておらず影響力を持たない人の発言は「実質的に」社会規範の縛りから逃れられている。」
となります。
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