相対的な位置と身体と環境

昨日は左右のことについて書きました。その際に左右は相対的だけれども、上下や東西南北はそうではないからというご意見がありました。しかし、宇宙空間から眺めてみると上下も東西南北も相対的です。地球の側を向いている方が下であり、反対側が上であるだけで地球がなければ上下もまたありません。東西南北もまた地球に依存しています。インフレーション理論ってのを詳しい人に教えてもらうと、どうも宇宙は膨張し続けているそうで、そうなると空間上に絶対的な位置というものがそもそも存在するのかという疑問が湧きます。膨らんでいるなら何かとの関係でしか位置を把握できません。

素人ながらそう考えていくと全てのものの位置は相対的なものでしかないのではないかという気がしてきます。私はスポーツの定義を「環境と身体の間で遊ぶこと」としています。それは自分の競技経験からどちらかが主体であるということ自体がただの思い込みではないかと感じていたからです。

それなりに走る技術を高めた人であれば、ランニングマシーンと地面を走る行為が違うことを知っています。地面が動くのか、私が動くのかという違いは思ったよりも大きく影響しています。例えば実際に走れば周辺の風景が流れていき、ランニングマシーンでは流れていかないわけですが、これは移動の感覚に大きく影響します。

生物はその原初に食う食われるが始まった頃、環境からのサインを受容することと物体を移動させることは非常に深く関係していました。食われそうになれば逃げ、餌を見えれば追いかけるように。それは当初は匂いともなんとも言えない、物質的な変化に気づくものであったと思うのですが、いずれそれが光の知覚機能になり視覚になったのではないでしょうか。「目の誕生」という本で、カンブリア紀に生物が一気に色彩豊かになりそれは目の誕生により生存戦略に幅が出たからだという仮説が書かれています。

私がここにいて、環境がその周りにあるという感覚は日常においては便利なものですが、ハイパフォーマンスの際に邪魔になります。最も良いパフォーマンスが行われる時は、環境と身体が良い関係で呼応しあっているように感じられます。身体もまた環境の一部になる、つまり絶対的に自分がいる位置というものすら無くなってしまい、主体がなくなる感覚を時に選手は体験します。もらう力を利用し、またその力によって自らが動かされ、その起点がなんだったのかすらわからないということです。波がいつ始まりその波によって押し流された木片はもはや何が始まりだったか意識しないように。この感覚を持ってアスリートたちはゾーンにおいて主客一体体験を報告するのではないでしょうか。

仏教では縁起といい、全ては関係しあっているとと説きます。縁起の主体的体験のことがゾーンではないかという仮説を私は持っています。

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