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アスリートファーストへの考察

アスリートファーストとは商業化が進みすぎて、アスリートが蔑ろにされていた状況を憂慮して生まれたアイデアなので、アマチュアイズムが強い日本にはピンとこない考えだが不思議と言葉だけ浸透した。日本においてはむしろ指導の局面においてアスリートファーストが謳われることが多い。

アスリートファーストを分析してみると、簡単ではないことに気が付く。アスリートと言ってもありとあらゆる種類の選手がいる。プロもいればアマもいる。先進国も途上国も、男性も女性も、若者もベテランもいる。それぞれのアスリートにとって状況は違い、利害が一致しないことも多い。

例えば現在、コロナウイルスでトレーニングができない状況が不公平であるという申し立てがあるが、途上国にはプールがなく体育館がないのでそもそもその競技に選手が出場していない。このような日常の不公平さは訴えられることは少なく、先進国で競争が成り立っている間においての不公平が注目される。

現在のアスリートファーストは、先進国の30歳ぐらいまでで、身体的能力に優れ人生でスポーツをする機会に恵まれてきた人々を、無意識に想定している。実際にアスリートファーストという際に拾ってくる選手の声はほとんど先進国のものばかりだ。まず競技者として勝っていないとこの枠組みに入れない。

地球上の人口を考えると、アジア・アフリカが主だが、これらのエリアから五輪に関しての選手の表明がほとんど出ていない。言い換えれば地球人口におけるマジョリティはまだ意見を発していない。ただし選手の声の大きさがGDPと競技力で決まるとするなら、多くの選手は五輪の延期を求めている。どの軸で切るか。

本音を言えば五輪をやりたい、準備してきた力を発揮したいという選手もいると思う。私が選手ならそう思ったはずだ。ただし、今地球上を同じ空気が包みつつある中、さらには強力なメディアを有している欧州米国がそちらに舵を切っている中、予定通りやりたいという選手は世論に叩かれるだろう。

私は延期に賛成の立場をとっているが、同時にアスリートの気持ちを考えると自由に発言をさせてあげたいし、多大な犠牲を払ってきたのだからそれは許容されるべきだと思う。競技者の本当のピークは2,3年で終わる。この夏がないなら、同じことはもうできない。一年後にはきっと代表選手の顔ぶれも、メダリストの顔ぶれも変わるだろう。

アスリートより先に社会があり、今は社会のためによい選択をするのみだろう。ただ何度も繰り返すが、本当にこの夏に人生をかけてきた選手がいて、その人たちに諦めるように迫るプロセスを踏んでいるということだけは理解して欲しい。何割かの選手はこの夏がないならもう次はないのだから。

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