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世界を見てそこに飛び込んだのか、飛び込んだから世界が見えたのか

長文ファンの皆様おはようございます。

私は散歩や、ドライブ、昔は全力疾走が好きなのですがふと

「移動しながら見ること、静止して見ることの違いはなんだろうか」と気になったことがあります。

進化の過程を振り返れば、移動する行為と見る行為はかなり密接に繋がっていたと考えられます。さらに突き詰めれば「見て(知覚)移動したのか、移動し見た(知覚)のか」となります。

生物に外界を知覚する器官が生まれ、外界に対して行為が生まれたと一般的には考えられますが、まず移動があり、移動によって外界との接触が生まれ、知覚が創発された、とも考えられます。おそらくヴァレリがエナクティブと呼んだものは、これに近いのではないかと思います。

つまり生物は、見て世界に飛び込んだのではなく、世界に飛び込んだ結果見えたというわけです。

当然ですが、知覚を豊かにするためには、外界との間に不規則な動きがあった方が望ましいと考えられます。ある一点からコップを見る時、両者が空間上に固定された状態ではあまり豊かな知覚は生まれません。右や左から見ることで立体的に知覚されます。

何が見えるかわからないが、とにかくあれこれ不規則に揺れていると世界が豊かに知覚される。

だから私は「世界を身体で取り込むために遊びが必要とされた」と考えています。

私のスポーツの定義は「身体と環境の間で遊ぶこと」ですが、遊びによる創発こそが知覚であり、私たちにとっての世界が豊かになる瞬間なのではないかと考えています。

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