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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ / メトロポリタン美術館
言葉にできないものへの想像力
長文ファンの皆様おはようございます。
言葉は表層までしか表現できないという限界があります。こころという言葉も、こころそのものではなく、こころの表層です。
私たちが何かを受け取るには、受け取れる形になっている必要があります。しかし、例えばこころそのものは、人間に都合を合わせているわけではありません。
こころそのものを相手に伝えようにも、まず自分がそれを掴むことができず、仮に掴んで伝えられたとしても相手がそれを認識することができません。
言葉は、伝えやすいように掴めるように表層だけまとめたものです。それを通じて相手と伝え合っている。けれども、それはそのものを伝え合っているわけではありません。
しかしそれでは「そもそも掴めないのであれば、それがそこにあるとどうやって知ることができるのか」という問いが浮かびます。
見えない真実があるのだ。だからそれを信じようというのが言語を中心とした世界ではないかと思っています。一方で、見えない世界を直感しようというのが身体を中心とした世界だと考えています。
言っている言葉はわかる、の奥に、いくらでも深くわかっていく世界があります。
「空が青かったんだ」
と言った少年の一言の意味を、生涯にかけてわかっていくこともあります。意味がわかり続け、変わり続けていきます。
話が通じないと私たちが思う時、通じていないのは言葉ではなく、言葉の役割の認識違いではないかと最近思います。
言葉にできることが全てだという人、言葉が表層だろうがそれでいいのではないかと思う人、言葉にしきれない何かをどうしても諦めきれない人。
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