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最後に生き残る人

blogを始めて17年、snsというものに触れてもう10年ほどになる。静かだったところから急に盛り上がりある程度の安定を迎え中には衰退を迎えるものもある中で、その中で活動する個人の動きには一定のパターンがあるように思う。

ビーカーの中に泥水が入りそれを激しくかき混ぜると底の方にあったもの舞い上がり全てが水中で混ざり合う。その雑多なカオスの時期を終えると、少しずつ泥水はそこに沈んでいって水は透明になり、何が浮いているか何が沈んでしまったかがわかる。一体それを分けるものはなんだろうか。

新しく始まったものはだいたい得体が知れない。少なくとも一般の大人から見ると。得体が知れないものを面白がるのはやはり得体が知れないか、新しいものを好む一定の人々、そして経験が少なく物事への思い込みが少ない若者たちだ。映画が主流の時代のテレビもそうだったと思う。

次第に市民権を得ていくが、お母さん(比喩)が参入するころから空気が変わり始める。お母さんが眉を潜めるようなものは次第に辺境に追いやられ、徐々にそこの世界は安定していく。それは最初の参入者にとっては面白くないかも知れないが、浸透したということでもあると思う。

前半で面白がられるスタイルが後半では敬遠される。テレビを見ても前半は奇抜な出方をした人も生き残る人は、浸透してきたタイミングからスタイルを変えているように見える。この転向することが許される範囲と許されない範囲があり、前半で一線を超えると後半の転向ができなくて転々とすることになる。

もっとやろうぜ。ノリが悪いよ。という言葉が前半では投げかけられる。冷ややかにしていれば祭りに参加できない。一方祭りは時間と共に変容していくので、気がついたら1人でぽつんと踊っていたということが起こる。みんな踊っているが冷めながら踊っていたのは誰かが、時間と共にわかる。

死人の目線で、踊りも踊れる人間は強い。

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