見出し画像

ネオテニー戦略② Neoteny strategy

ネオテニーストラテジーはへの反論はこんなものが考えられます。

「とはいえ人間は柔らかい存在で、再適応可能ではないか。きちんと新しい環境さえやってくれば人は変われるはずだ。」

「努力して唯一無二の存在になれば、替えの効かない存在になり自然と生き残れるはずだ。」

これを考える時にはまず前提として社会的に実力がある人の能力とは「他者が認識できる強化された特性のこと」だということです。言い換えれば他者が認識できなければ優れていることすらわからず、それは能力とすら呼ばれません。

スポーツのようにずっと前からルールが変わらず、ゲームの本質が変わらないような世界は、そこにうまく適応した特性が能力であると分かりやすいです。陸上競技にとって足が速いというのは分かりやすい能力です。受験勉強で何かを記憶できる能力が重要になるのは試験の性質が変わらないからです。このようにゲームのルールが変わらなければ必要とされる要素もまた変わらず、故に能力も、才能もはっきりします。でももしゲームのルールが変わる世界ではどうでしょうか。

例えば陸上競技では足首関節の柔軟性はランニングに不利な可能性があります。ケニア選手たちの足首関節が90度程度しか屈曲せず屈伸もあまりしない(スキーブーツを履いたような状態)ことは知られています。一方で足首が柔軟に屈伸屈曲することで水泳におけるキックの効果が生み出されます。つまり水泳における能力とは陸上における負の能力と同じであるということです。

このように何かに適応した能力は違う世界では能力どころか、むしろ負の遺産となることがあります。スポーツのような固定化された世界とは違い、実社会はどんどん環境が変化し、求められる能力が変化します。ですからある時代に認められた能力を持っている人は、次の時代ではその能力が全く評価されないかもしれません。陸上の中の短距離から幅跳び程度の変化であれば、過去の能力の転用が可能ですが、陸上から水泳ほどの変化では転用できる能力は僅かです。泳げない野球選手、足が遅い水泳選手、投げられない体操選手などオリンピック選手村ではたくさん見かけます。本当の能力とは汎用性がなく特化されたものだからです。

だったら、ただ適応すればいいだけだと思われるかもしれませんが、人間の学習の癖が影響しそう簡単にはいきません。人間は癖づけられたものは、使いたがるという性質があります。つまり、すでに覚えているものでなんとかなりそうな時は過去の癖を使いたがるということです。

日本語に適応するということは、音の認識レベルから適応します。運動も小脳で学習されます。ハードルを飛ぶ時にどうしてもつま先を伸ばしてしまう方がいましたが(ハードルは足首を屈曲させて飛ぶ方が良いとされる)、聞いてみるとクラシックバレエを習っていたのだそうです。ジャンプする時にバレエの癖を引き出す方が短期的には負荷が小さいのだろうと思います。

再適応の際の難しさは、この過去の癖の塗り替えを行わなければならないということで昔の癖を禁じて新しいやり方に慣れようとする一定期間は苦痛を伴います。そこに耐えきれず人は昔のやり方に固執するわけです。

ネオテニーストラテジーの発想は、この癖が固定化されすぎることをそもそも防いでしまおうという点にあります。適応しすぎるから癖になり、癖が強ければ新しいやり方に適応しにくいわけですからそうならないようにしておくわけです。

そして人間の癖の最も厄介な領域は「考え方、認識の仕方」です。ある種の思い込みですから自分についた癖を自分でも気づけないわけです。

これは「気づけば変えればいい」ということが、そもそも気づかないために難しいことを意味します。ですからネオテニー的にいることが大事だと私は考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?