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嫉妬のマネジメント

40代に入り、これから必要なスキルの一つが嫉妬のマネジメントだと直感しています。日本社会に生きている場合は特にですが、他者の嫉妬から免れることはできませんし、また自分自身の嫉妬の感情をうまく扱えなければ身を滅ぼします。

振り返れば私の人生で初めて強く嫉妬を覚えたのは高校生の時でした。自分より優れた才能を持った後輩が同じ学校の陸上部に入ってきて、追い抜かされました。この時のなんともいえない感情は今でも覚えています。他人が彼を褒めるときに例えば「確かにすごいね。でも、実はこんな問題点があって、、」と、一見同調しているようでいながら問題点を指摘するその言葉は、自らの嫉妬からきていることに気がついてもいました。あの時が人間の嫉妬について考える出発点でした。

嫉妬自体を悪いものだと捉える傾向にあると思いますが、実際には少なくとも競争の現場においては良くも悪くもありませんでした。全ては扱い方次第です。例えば実際に高校時代に良い成績を収められたのは彼への嫉妬心が背景にあったと思います。嫉妬とは、その標的に注意を固定するという点で、執着とも言えます。ですから、その標的に追いつけ追い越せとばかりに自らを奮い立たせる原動力にもなり得ます。

一方、嫉妬は注意を固定するということですから、狭い世界から目が離せなくなることでもあります。世界は広く、競争相手も山ほどいて、かつそもそも競争という意識から離れ自分を自由に表現することもあり得る中で、あくまで自分の見えている範囲での優劣に注意を向けてしまうことが嫉妬です。嫉妬による最大の被害者は嫉妬している本人です。嫉妬さえきちんとマネジメントできれば、細かい違いにこだわって狭い世界で僻みながら生きることもなかったのに、自らそれを選んだ結果、今の場所で今の人生を生きる羽目になっています。

嫉妬と公平性は近い感情です。あの人は自分よりいい思いをしているずるいという感情の解決には、三つの選択肢があります。視野を広げ執着から放たれるか、相手に追いつくか、相手を引き摺り下ろすかです。年齢が若い間は可能性がまだ開かれていますから追いつく選択をする人が多いですが、年齢がそれなりになると、自分は変えられないという認識を持ち始めます。その場合、選択は二つで執着から放たれるか、相手を引き下ろすしかありません。前者はメタ認知能力を必要とするのでなかなか習得し難く、故に大人の嫉妬は足の引っ張り合いになる傾向があります。大人の嫉妬が非生産的になる所以です。

嫉妬は無くなるものであってなくすことはできないと私は考えています。お腹が空くことは止められないが、食べるか食べないか、何を食べるかは選ぶことができるということです。嫉妬を拗らせる人の心理は一言で言えば「体裁にこだわる」です。優劣にこだわる、社会的評価にこだわる、あるべき自分像にこだわる、公平性にこだわる、です。羨ましい時素直に羨ましいと言えば、嫉妬は流れていきますが、「羨ましい」が「こんなことは許されない」や「正しくない」に変わってしまうとこじらせが始まります。羨ましいと言葉にする自分が恥ずかしくてそれを覆い隠そうとするところから全ては始まります。

他者からの嫉妬のかわし方は基本的にはないと思います。自分のやるべきことをやることと、謙虚さを持つことぐらいでしょうか。ただ優しい人がよくやってしまうけれど後々尾を引くのは「相手を立てすぎること」だと思います。立てるのは相手の神輿を支える一部になるようなものなので一度支えてしまうと手を離せなくなります。離せば落下の衝撃があり、それをもとに嫉妬する人は平気で恨んできます。

さて嫉妬のマネジメントですが、具体的な方法はそんなに難しくなくて「認める」ということだけだと思います。私はあの人に嫉妬していると口に出して認めるだけです。できれば他者の前で。なんだそんな簡単なことと思われる方は嫉妬に食われることが少ない方だと思います。嫉妬を拗らせる人は嫉妬している自分を驚くほど認めることができません。

年長者の嫉妬はこの国の課題の背景に根強くあると私は考えていますが、その人自身もまた嫉妬の被害者とも言えます。もっと素直に羨ましいことを羨ましいと認め、嫉妬にも飽きて自分の人生を謳歌することに注意が向かえば、もう少し我が国は開放的で個人が嫉妬に足を引っ張られることなく、生きやすい国になるのではないかと思います。

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