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言語化は圧縮のセンスであり、傾聴は展開のセンスである

長文ファンの皆様おはようございます。

言葉が伝わる時、伝える側の言語化の能力と同時に、聴く側の傾聴力も関係します。私たちはついどうすれば伝わるのかを重視してしまいますが、どうすれば「聞けるのか」も大変重要です。

言語は大変に情報量が少なく、ほとんど正確に言い表すことができません。「夕日が綺麗だった」という言葉は、そこにあった周辺の人々、雑踏の音、匂い、ビル群などの無数の情報の中から「夕日」と「綺麗だと感じた気持ち」だけを抜き出しています。

そうしていわばその時の状況の圧縮ファイルのようになった言葉を、今度は聴く側が受け取り展開しなければなりません。言語化は圧縮のセンスであり、傾聴は展開のセンスです。

同じ言葉を聞いて、豊かなイメージを広げられる人、大きな学びを得られる人とそうではない人の違いはなんでしょうか。言葉は圧縮のために、言い換えれば多くの情報を捨て去っているわけです。傾聴できる人は、言葉をそのまま理解できる気ではなく捨て去った情報を読み取れるのではないかと思います。もちろん何が語られているかをきちんと理解することは前提ですが、その上で語られなかったものを含めてファイルを展開できるのではないかと思います。

しかし、それは語られていないのに勝手に想像で埋めることでもありますから、誤解を生じさせる可能性があります。うまく傾聴する人は語られないことを読み取りながら誤解が少ない。それはその人の体験の全体感を掴めるからではないかと思います。

体験すべてがAだとすれば、それを言葉に圧縮したものがA'であり、捨てられた部分はBだとします。例えば

ふるいけや、かわずとびこむ、みずのおと

は、当然俳句だけではなく語られていない部分にも(むしろそれが重要)意味があるわけですが、その語られていない部分をどのようにうめるかはどのような枠組みでこの言葉を捉えるかにかかっています。

A(体験全体)-A'(俳句)=B(語られていないもの)

Bにはその人が意識的に知覚したものと、無意識的に知覚したもの、知覚されていない環境が含まれます。全体の枠組みによってBは大きく変化します。傾聴とは、この全体の枠組みとその時のその人の情動への想像力によって決まるのではないかと思っています。

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