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私たちは本当は何を経験してるのか

長文ファンの皆様おはようございます。

私たちは本当は何を経験しているのでしょうか。以前、大変疲れている時にカフェラテを飲んでいたところ、半分ぐらい飲んだところでずいぶん薄いなと思って蓋を開けてみるとコーヒーが入っていなかったことがありました。

この紙コップの半分を飲むまでの私は一体何を経験していたのでしょうか。事実から言えば温かい牛乳を飲んだだけですが、認識としてはカフェラテを飲んでいるわけです。

人間の知覚とても敏感でありながら、大雑把な部分もあり、まだらです。実際にはそのまだらな知覚を、自分の脳内の編集が埋めており、その編集で埋まったものを私たちは経験していると言われています。

味覚と、触覚と、嗅覚の知覚にはかなり時間差がありますが、口に入れて味わう時まるで同時に知覚しているように感じられるのは勝手に脳が編集しているからです。

ということは、全ての経験は生々しい流しっぱなしの映像ではなく、脳によって編集済みの映像のようなものだということです。

そしてこの経験に影響を与えているのが過去の経験です。カフェラテを飲む前に、認識はカフェラテを味わい始めています。その差異がそれほど大きくなければそのまま流れていき、差異が大きければ今飲んでいるカフェラテに注意する。

そう考えると経験とは、

「過去の経験を再生が、今経験されていることの一定部分を占める」

と言えるのではないでしょうか

私たちが経験していると思っていることが実は記憶なのかもしれません。

実際に、ある匂いで誰かを思い浮かべたりしますが、その時には匂いそのものの経験と、その人との交流の経験が混ざっているように思います。

もしかすると経験が蓄積された大人の1日とは、きっかけがいくつかあるだけで、あとは過去の経験を再度経験しているだけなのかもしれません。

禅では三昧の境地が言及されていますが、これはもしかすると記憶の再生を止め、世界をそのまま知覚する体験なのかもしれません。あるがままでもあり、むき出しでもあります。

私はカフェラテを毎日一度は飲みますが、本当にカフェラテを飲んでいるのか、それとも匂いと味、もしくはすでにカップを持った時点から過去の記憶の再生に過ぎないのか。最近、気になってしょうがありません。

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