日本のルールを軽視する文化
日本はルールを軽視する国だ。一見ルールでがんじがらめのように思えて、実際のところはルールの解釈をかなり自由に変えるし、またルールに沿っていても世間が許さなければ人を裁く。逆説的だけれど、ルールを軽視するからこそルールが長い間変わらず硬直化する。
大岡越前はとても懐が深く人情があるように見えるが、もし部下であればルールではなく大岡越前の気分と価値観で裁かれるので、どんな行動も安心できない。ルールがきっちり決まっていれば反対にルールの中では自由に動けるが、ルールが軽視されるなら全ての行動が気分次第で裁かれる可能性がある。
時にこの国ではルール違反より、空気違反の方が強く罰せられる。子供たちも社会を見ながらそれを学ぶので、集団に嫌われることを恐れ、空気を読むことを重視する。人を捌く時は法律ではなく、世間に訴える。世間は行動ではなく、人格や動機を重視する。世間の情状酌量の幅は大きい。
ルールが長い間変わらないのは、ルールは守らなければならないという意識が薄いので、世の中が変わったらルールも変えないといけないという発想があまりないからではないか。世の中が変わったのならルールより解釈を変えて対応する。またはそんな意識もなければ世の中を無視してルールを守る。
一方、ルールでがんじがらめにしなくても自らを抑制して行動できる。ルールで人の行動を制限しなくても、自粛で行動が制限できるのはルールより空気を重んじる特性が出ているように思う。ルールよりも大事なものがあるだろうと思っているので、勝手に規律が生まれ秩序が成立してしまう。
松井選手に全打席敬遠した明徳義塾の選手たちは、高校生らしくない、正々堂々としていないと言われたが、高校生らしさや正々堂々とすることについて細かく明文化されたものがない。じゃあ具体的にはどうすればと聞いても、自分の胸に聞いてみろとしか言われない。
私はもしこの国に挑戦者を増やすなら、ルール違反以外の空気違反を許容する練習を皆でするべきだと思う。一方で、この国の秩序を守っていくならこの空気を読む文化を大事にするべきだと思う。日本においてのガバナンスは、空気との戦いで、どんなにルールを固めても空気は別の次元に存在する。
空気を読まなくて許される存在は、子供と道化と部外者だ。ルールとはその領域の真面目な大人が従うべきもので、未熟者や、異質のものや、部外者は従わなくても許容される。王様は裸だと言えるのは子供だ。多様性とユーモアと人の流れがあれば、空気が変わる。
参考図書
空気の研究
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