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世間をお騒がせ罪

我が国には「世間をお騒がせ罪」がというものが存在します。明確にそれが悪いというわけではないものの(時には終わってみるとそもそも何が悪かったのかよくわからないこともある)、世間をお騒がせしたことに対し生じるのがこの罪です。このお騒がせ罪の背景には同調圧力の強さがあり、そこには三つの特徴があると思います。
・ルールではないマナーの範囲が広い
・マナーを統一しようとする力が強い
・マナーに基準がなく空気で決まる
です。私の理解では、多様性が広がらないことも、イノベーションが生まれないことも、個人の才能が発揮されないことも、社会が変われないことも、これが原因の一つです。

この三つがあるからこそ、私たちの国が安定しているのは確かです。例えば震災後の落ち着いた振る舞いは称賛されました。ルールも強制力もないのになぜ?それは日本人であればわかりますが、空気の力が大変強く皆の行動がある程度の範囲におさまるようにできているからです。

一方で多様性はこれによって阻害されています。多様性とは表面的には人種や性別などによって差別を受けないことですが、もっと本質的な意味では多様な価値観を認めることです。何がいいか何が悪いかは価値観によって決まります。価値観が違えば善悪もまた違うところがある。つまり多様な価値観を認めるということは、不快に思うライン、問題だと思うラインが多様になるということです。もしこれを統一しようとするなら当然ですが価値観もまた統一しなければなりません。

しかし、明文化されていないマナーの世界を強制することはできません。しかし、お騒がせ罪がある国ではマナーもまた統一したい。ですから我々は「世間」と「ご迷惑」と「お気持ち」いう言葉を多用します。「それは世間が認めないんじゃないか」「皆様にご迷惑がかかる」「お気持ちを考えると」という表現でマナーを穏やかに強制します。世間もご迷惑もお気持ちも全ては感情次第なので軸がありません。戦前戦後と180度空気が変わり、しかもそのことに対して驚くほど見事に受けいれることができたのは、軸がなかったからです。

軸がないということは空気でお騒がせするかどうかが決まるということです。空気はいつどちらに流れるかわかりません。その怖さを私たちは子供の頃からよく知っているので、世間の空気を当たり前のように読んでいます。空気は大体多数派の側にあるので、私たちは多数派に無意識に身を寄せる癖があります。

「お騒がせ罪」の力をよく知っている人は、騒ぎを起こし大きくしたがります。迷惑がかかっている、世間が怒っている、傷ついた人がいる、という理由が用いられます。しかし、迷惑がかからず、世間と全く違わず、迷惑もかからない行動など決められたことを官僚的にやる以外にはありません。新しいことや自由な表現は大体、どこか迷惑をかけたり他者を傷つけることもあります。「私、幸せなんです」という誰かのインスタグラムを見て嫉妬で傷つく人もいます。

個性を大事に、多様性を大事に、イノベーションを起こして、違うことを恐れない、といくら言っても、この「お騒がせ罪」がある以上は、実現しないでしょう。個性も多様性もイノベーションも人と違う価値観を持つことを前提としているからです。それは世間をお騒がせることと常に隣り合わせです。

このマナーの統一は本当に善意をもって行われます。本当にそれが正しく、相手のためになると信じていられるからこそ強制できます。しかしなぜマナーの統一を善意で行えるのかというと、自分の意見が世間の意見と一体化しているからです。本当に世間と自分が一体化していてそのことに無自覚だからこそ、他者にもマナーの統一を迫ることができます。「そのままだとあなたのためにならないのよ」と。

この国には社会がないというのは柳田國男の言葉です。
自分の意見を持つには軸が必要
→軸を作るには違う価値観との間での葛藤が必要
→違う価値観が空気で抑制される
→違う価値観と触れる機会がないので自分の価値観がわからない
→自分の意見がないので世間と一体化する
という順番だと理解しています。

では全てルールで明文化すればいい。ルールにないことは一切自由だというのも極論だと思います。ルールなんてほんの一部で、日常の多くはルールでも決まっていないけれど、「あれ、これどうなんだろう」ともやもやするラインにあります。そして私たちは同じ社会の一員で、力を合わせ合意形成をしなければなりません。ですから、明文化されていない領域は都度対話をしていくことが重要だと思いますが、その時に「話し合って合意に至ったとしても価値観は違うまま」であることを大事にしなければなりません。対話の目的が価値観を統一だとするとこれこそが同調圧力をうむ原因になります。俺は青色が好きなんだけど今回は赤にする、が大事なわけで、じゃあ〇〇君が青色を好きになれるようにみんなで考えようは同調圧力の強制です。

クラシック酷評辞典というものがあります。とにかくこれでもかというぐらいベートーヴェンやモーツァルトなど歴史的な音楽家が当時の評価でこき下ろされています。同調圧力はどの国にもあったのだということがよくわかることと、そしてそんな中でもこれはいいじゃないかと評価する少数の人がこのような音楽家を歴史に残していったのだと思います。少数の人の価値観が大事にされる社会でありたいと共に、それは生やさしい話ではなく私たちの不快の許容にかかっていると思います。

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