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群れと個

長文ファンの皆様おはようございます。

社会を「群れ」と「個」でみてみます。ホモサピエンスは随分早い段階から群れで生活していたことが知られています。群れでいることのメリットには、集団で身を守ること、リソースのバランス良い分配があります。どちらも生存確率を高め、遺伝子を残しやすくなります。

例えばある人は十分に空腹を満たしており、ある人は空腹である場合、余ったものをたりない人に分配した方が全体としての全体として効率が良くなります。一説には人間は直立二足歩行の利点に、腕が自由になることで、遠くにある餌を手に抱えて群れに持ち帰ることができたことがあると言われています。
私たち人間は本質的に群れを作り、獲得したものを分配する性質を持っていると考えていいと思います。

しかしこの分配システムはフリーライドも可能です。
機械的に毎年6月1日にボーナスを全社員に分配する会社があった時、5月31日に入社しボーナスだけもらい6月2日に退社するような社員が生まれた時に、私たちは不公平感を覚えます。
なぜなら皆がそれぞれできる形で貢献することで利得が得られそれが分配されているのに、分配だけ預かろうなんて「ふてえやろうだ」となるからです。
そこで「群れの境目」をはっきりさせる意識が私たちには芽生えたのだろうと考えています。 いわゆる身内と外です。オキシトシンの作用と言ってもいいのかもしれません。身内に対しては愛、外に対しては排他です。

私は保守の本質はこの身内主義だと考えています。つまり内と外を分けて内を優遇する。個人より集団ですから、集団の正当性を保つために歴史や象徴が重視されます。
保守の内部分裂が少ないのは最初に区切った内の論理が強いために、内部はいろいろあっても最後はみんな同じグループじゃないかと落ち着かせる傾向にあるからではないかと思います。

一方リベラルの本質は個人主義です。群れシステムは排他的なので、それよりも普遍的な一人一人の人権を守り個であることを大事にします。しかし、個人であるために群れが形成しにくい弱点を持っています。個は多様なので、かなり妥協しなければ群れにはなり得ないからです。要するに「身内は身内」という群れシステムより、個人を重視するので、どうしても対立軸が目立ち内部分裂が起きやすくなるからです。
群れが機能しなければ分配が期待できません。 リベラルは自由だが厳しい、保守は排他的だが優しいのだと思います。

エーリッヒフロムは「自由からの逃走」と「愛するということ」において、本質的に人は群れに従属したい性質を持っているとしました。

しかし自己が確立されていない愛は依存であって愛ではない。だからそれを克服することが出発点であると説きました。

それは真実だろうと思いますが、しかしこの群れシステムから出発したホモサピエンスが、群れに依存しない自己を確立するのは大変に大変に厳しい旅路になります。余談ですがエーリッヒフロムと鈴木大拙は親交があったようで、何度も手紙でやり取りがされているようです。
私は二人のファンですから「日本的霊性」と「自由からの逃走」の二人がどんな会話をしていたのか、とても興味深いです。

個の時代は厳しく、必ず脱落し、群れから振り落とされる人を生み出します。その人たちが何にすがるかと言えば当然新たな「群れ」です。新たな群れは形はいろいろですが、要するにエリートに襲い掛かります。

私は「包括的で自由な社会」が理想だと思っているのですが、それらは矛盾するのではないかとも感じていつも悩んでいます。

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