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オンライン教育と「わかる」ということ

昨日オンライン教育について話しましたがたくさんのご意見をいただきました。オンライン教育はできる、できないという議論がなされる中、興味を持ったのは「わかるとは何か」ということです。あの子はわかっている、理解しているという時、一体何を持って私たちはそれを判断しているのでしょうか。

ソクラテスは自分自身で文章を残しておらず弟子のプラトンが書き残したもののみになっています。産婆術と言われる質問を重ねながら相手の理解を深めていく手法を得意としたソクラテスは活字とは柔軟性に欠け、真実の知恵を伝えることができないと厳しく批判しました。ソクラテスの言葉には一定の説得力があることは、昨今のテキスト文化でのトラブルで理解できると思います。しかしそれでも活字が活版印刷によって知識がコピーされ拡散されていくことは大きな利点がありました。ソクラテスは豊かな環境にいて、議論を交わせるだけの知性の質をそれほど希少だと思っていなかったのかもしれません。

私の息子はマインクラフトのやり方を全てインターネットの音声検索により学びました。算数と国語もタブレットでオンラインで勝手に学んでしまっています。もはや講師の音声は人間ですらなくデジタル音声を誰かが喋らせているものなのでいずれは人間の介在も最小限になるでしょう。もちろん途中でつまづくこともあります。しかし、検索と言えば音声検索の世代なので、なにをググるか答えが変わるように「誰にどんな質問をすれば適切な回答を得られるか」を日々学習しているようです。いずれは、わからないときは適切な相手を見つけその人に質問をし解決策を見つけるようになるでしょう。私はわからないとは打つ手が思いつかない状態の別の呼び方だと考えています。

ここで言いたいことは、活版印刷もデジタルもただの技術に過ぎないということです。教育へのデジタルの使い方に成功失敗はあるかもしれませんが、流れは不可避だと思います。宿題を紙で学校に持っていくよりメールで送った方がいいし、アンケートは紙の結果を集計するよりグーグルフォームの方がいいし、子供たちの調べ物もPCを介して行った方がいいわけです。ソクラテスにはそんな意図はなかったと思いますが、活字の問題点を指摘しても、活字の普及と活版印刷は止められませんでした。

デジタルが普及すれば質問できる人は知りたい情報に行き着くことができます。つまり「わかる子はわからなくなるまでは何もできないししない方がいい」ということです。そしてわからない子は何を質問していいかわからないか、または情報の理解の仕方がわからないということですから、そこに手厚い補助を入れる必要があります。イメージで言えば勝手に走る自動運転のラジコンカーがレースをしていて、途中で故障したりまたは壁にぶつかって身動き取れなくなったのを助けてあげる他は勝手にレースは進んでいくということです。

しかしこれらは特定された知識の話です。ある意味で答えがある類の問いと言ってもいいです。では、もっと抽象度の高い問いへの「わかる」はどうしたらいいでしょうか。例えば人はなぜ生きるのか。自分はどういければいいのか。正しさとは何か。と言ったような。

ここにこそ知の面白さがあると思います。本を読み知識を得ても、このような問いに答えるには、身体を通した人生経験、人との軋轢や心を通わせること、そして良き師との対話しかないと思います。ソクラテスが口述でしかできないと言ったもの、それこそが学校で教員が生徒に対面によって提供するものだと私は考えています。わからないをわかってあげること、人生とは何かを共に悩んであげることは人と人と間にずっと残り続けるのではないでしょうか。

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