見出し画像

誰もが良かれと思ってやっている

どんな相手であっても行動や言動の意図を理解しようと思うなら「誰もが良かれと思ってやっている」という前提に立つことが大切だと思います。これは誰かとトラブルの最中にいる人にとっては瞬間に拒絶したくなる考えでもあります。どう考えても「あんなことをする人が良かれと思ってやっているとは到底思えない」からです。

まず「良かれ」というのは必ず対象を必要とします。私たちは「良い社会を作ろう」と、日常的には対象を指定せず使ったりしますが、そんな場合でも何か対象を無意識にイメージしています。人類にとっていいことは地球にとっていいことかどうかわかりませんし、自国に良いことは他国にいいことかどうかわかりません。ですから「良かれ」には「何にとって」がとても大切です。

もう一つ大事な点は何を持って良いとするかは、その人がその時に考えていることで決まるということです。例えば自らを傷つけようと考えている人は外部からはどう考えても良い行動とは思えないですが、その瞬間の本人にとってはその行動が良いことだと思える背景があります。中毒も同じです。この場合の「良い」の定義は難しいですが、快楽と幸福と社会善が混ざったようなものだと私は考えています。お気づきの通り、自分にとって良いことも相手にとって良いことだとは限りません。幸福が多様なように、「良い」も多様だからです。

さらに他者を全く気遣わないサイコパスのような存在もいるじゃないかというご意見もありますが、「自分にとって良かれ」と思い行動しているという点で理解しやすいです。以上を踏まえて、誰もが「良かれ」と思い行動しているというのが私の意見です。ただ対象と良いの基準が人によって違うだけです。

人間関係のトラブルを見ていると、想像というのは大きな要素だと思います。人は一旦相手を敵認定すると、コミュニケーション量が減り、代わりに相手の行動や言動の意図を「自分の想像で埋める」傾向にあります。そういった場合相手に好感を持っていないのは自明ですから、想像で埋める際にどうしてもバイアスがかかります。そうして相手の行動の本当の真意はわからないながら、自分の中では悪意がある相手として出来上がっていきます。人間は不思議と自分だけは善人であると考える癖があります。

スポーツの世界で体罰を根絶しようとしてもなかなか進まないのは「良かれと思っている人がいるから」です。その人にとっては生徒のためを思っている行動であったり、また自分自身がそれによって変われたという成功体験を持っていたりもします。ですから、行動をいくら制限しても信念自体が変わっていないのでうまくいきません。相手の内在論理まで踏み込んでそこから始めないと人はなかなか変われないのです。

本当に信じられないことですが、「悪意を持って」行動している人は少ないというのが私の実感です。一体相手が持っている内在論理は何なのか。それを知ることが人間関係のトラブルを脱却する一歩でもあると思います。

参考資料 加害と被害

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?