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会うということ

最近「会うことが人生にどのような影響を与えるのか」を考えています。人に会うとはどういうことでしょうか。オンラインでも会ったことになるのでしょうか。もしそうでなければ、現実的に会うことにはどのような意味があり、特徴があるのでしょうか。

人間の認知機能は大変優れています。考えてみれば360度様々な方向から音が聞こえ、匂いがし、かつ視覚にはあらゆる情報が飛び込んでくる中で、大して混乱せず生きていられるだけで大変なことです。考えてみれば、見るとか聞くとか匂うというのは人間が分類した機能なだけで、そこに漂う情報を受け取っているということにおいては違いはありません。そのような膨大な情報を受け取っても平気なのは、無意識で情報の取捨選択をおこなっているからだそうです。

例えばカクテルパーティー効果というものがあります。パーティーに出ていて目の前の人と話をする時周りの声はあまり聞こえていません。ところが後ろで自分の噂話が始まると急に不安に思って聞き耳を立てます。しかし、なぜ聞こえていないはずの周辺の話なのに、自分の名前が出た途端声が聞こえたのでしょうか。

身体が周辺から取り入れている情報の中から、私たちは無意識に情報を選び取り、それが意識に上がっているということだと私は理解しています。実感としては聞こえた、見えた、なのですが、身体内部の関係で言えばそれぞれの認知器官に「見せられている」「聞かされている」になります。私たちが見た聞いたと思っているものは本当に見て聞いているものが編集された一部の情報に過ぎないということです。ここに会うのヒントがあります。

私たちがオンラインで人に会う時、重要だと判断され抜き出された情報をやりとりしています。ところが現実に会うとその人を含んだ周辺とその人の関係、つまり全体を体験しています。相手がふっと左に目をやった時、そこに子供がいたのか、女性がいたのか、それとも何もなかったのか、がわかるということです。つまり会うとは「その人と周辺環境全体を体験すること」と定義できるのではないでしょうか。

人は体験したものに影響されるという性質を持っています。それは言い換えると会っている人に人は影響され、似ていくということでもあります。例えば、意識的か無意識的か日本に長くいる外国人の方は少し振る舞いが日本的になっていきます。それはある種の適応であり、人間に備わった能力です。それは結局のところ、平均値に寄せられていくということでもあるのではないかというのが私の仮説です。会うことは大事で、人に会わなさすぎると社会とずれてしまいますし、また時には一人でいすぎると心を病んでしまいます。一方、意外なアイデアや突飛な発想は平均値と離れたところにあり、平均に寄せられてしまってはいけません。

人生を生きやすくする上で、何かを生み出す上で、リアルで会う、オンラインで話す、一人でいることの比率は重要なのではないかと思います。引退して私は一人の比率が下がっていましたが、どうも一人で散歩をしている時にアイデアを着想するようで、人に会い過ぎてはいけないのだなと感じるようになりました。

これは要するに、外部からもたらされる情報量と、内側で情報の関係が整理されることのバランスなのではないかと考えています。リアルの情報量は膨大です。そのバランスをうまく取ることで自らのアウトプットの質が変化すると感じています。

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