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自由に選べるという幻想

自分がやりたいようにやるということは素晴らしいことですがその弊害もあると思います。自分で自分をくすぐってもくすぐったくないのは、自分でやっているので予想がつくからです。つまり、自分のやりたいことは今の自分の想像の範囲の中にしかなく、やりたいことをやり続けることで想像の範囲の中に止まる恐れがあります。

例えば自立して自分で決められる大人になってほしいと、子供に自由に選択させていたら子供が自分の心地よい範囲から出なくなったという例はたくさんあります。なぜかというと経験の少ない子供が自分でやりたいことをやり続けると、子供の小さな想像の範囲の中でぐるぐる回るだけになってしまうからです。子供には無限の可能性がありますが、子供には自分が停滞していると察知する成熟した客観性や、限られた選択肢の中で選択をしているのではないかという疑いの心はありません。見えているものの中から、経験したものの中から選択をしています。また巷で言われるように子供には好奇心があり制限さえしなければ無限に世界が広がっていくというわけでもありません。人類の子供時代の生存戦略は素早く自らが生まれ落ちた環境を理解しそこに適応することです。ですから子供にはある程度までの範囲の好奇心と、そこに適応して定着しようとする力の両方があります。生まれてすぐ不幸にして人間のいない野生の環境で育てられた少年は全くの自由な環境で育っていますが、その後生涯にわたって人間社会に適応できるだけの知性を獲得できませんでした。

世界が広がるのは偶然の出会いの影響が大きいです。誰と出会うか、何を知るか。世界を広げ視野を広げるためには、偶然の出会いが起きやすくすることです。それは裏を返すと自分のやりたいようにやりすぎない。計画しすぎない。心地よい場所にいすぎない。ことです。

突き詰めれば私たちは自分の意志では生まれていません。そもそも人生が受け身で始まり、受け身で初期の環境に影響を受け、そうして作られた自分に好き嫌いが備わり、その基準に従って選択をしています。言い換えると与えられたDNAと授けられた教育に基づいて選択をしているという点で、実際には自由なのではなく自由だと感じているのだと思います。

自分があり自由があるという考えを背景に、自分とは何かという問いが生まれます。自分があり自由意志があるはずだという考えを強く持つことで、「私」にこだわりが生まれます。私その制約が最も強いと考えています。何一つ選んでいないし、獲得もしていないと思えば、その方がむしろ自由になるというパラドックスがそこにあります。

最近息子に「好きなものを食べるんじゃなくて、出てきたものを食べるんだ」と出てきたトマトを食べさせようとしています。自由への道は険しいぞ、息子よ!

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