戦争に対して思うこと

ロシア侵攻に対するウクライナの徹底抗戦について。
マスコミが報じないこんな側面もあるのかと、はっとさせられた記事。

マスコミが日々報じる惨状も、上の記事ような個人の方の見解も、真偽の程は確かめようもないし、この平和な日本から安全に情報を取捨選択してそれらしいストーリーを想像するしかできない。自分が傍観者ですらない立場から戦争に対する意見を表明するなど、問題はそんなに単純なことではないし、本当は口を慎むべきことかもしれない。平和な側に居続ける自分が自分の安全を少しも脅かさずにわかったように何かを言うことは極めて傲慢だが、というような枕詞をせめてつけることで許されるのなら、考えていることを文字に残しておきたいと思う。それが意味のあることかないことかはわからないけれど。

国という枠組みを守るために、命を犠牲にして抗戦を続けることが正しいかどうかはわからないし、日本人がそれに気づいてしまうことが不都合かどうかもわからない。僕自身が思っていることを言えば、この記事を読んで、確かにウクライナの政府と国民が徹底抗戦しなければ(かんたんにロシアに降伏してしまえば)人命がこんなにも犠牲になることはなかっただろうし、人命を犠牲にしてまで「国家」の枠組みを守ることにこだわる必要がどこにあるのかと、よくよく考えれば思うし、戦後日本の平和教育も究極的にはここ(命がいちばん大事)にあったんじゃないかと気付く。それなのに、ウクライナの人たちが徹底抗戦して国を守ることに疑問を抱かず、プーチン1人が悪の権化で彼さえいなければこんなことにはならなかったという見方を、当たり前のように持っていたことが不思議だ。

今ここで、ウクライナにエールを、支援を、と言って、日和見的に弱者を守る立場についてみても、結果的にウクライナという国家を守ることには繋がるかもしれないけれど、犠牲になった人たちは絶対に戻ってこないし、将来同じような独裁者が現れて暴挙に出る可能性を少しでも減らせるのかといったらそれもわからない。

どこかの国の首脳がロシアの首脳が話す時間にでリモート上で退席して抗議の意を示したというけれど、パソコンの前から数メートル移動することと人間の頭が銃弾で飛ぶかどうかということが同じ土俵で駆け引きされているなんて冗談じゃない。でも今は人間にはこんなことしかできない。

本当に人間の命を守ろうと思ったら、独裁者が他国民の人権を否定して国家の自治を剥奪する行為が例外なく防げるしくみが必要なのに、個人の嗜好までGAFAがすべて握ってるこのIT社会でそれができてないなんて笑っちゃうよね。でも、現実にはこの戦争が起こっている。

きっと誰もが、少しでも楽に、少しでも豊かな暮らし(物的にも、精神的にも)を手に入れたいと願っていて、妬みや嫉みもそこから派生している。けれど、それは他人を不幸にしてまで手に入れるようなものではないと、大多数は思っている(理性的には)。
けれど、少しでも心地よい状態が手に入るなら、維持できるなら、そのために自分と関係のない遠い遠い人が犠牲になっていようと見て見ぬ振りができる人は、(自分も含めて)まあまあいると思う。

きっとここが人間世界のスキみたいなところかもしれない。程度問題だけれど、これがだんだん「より近い、直接手を下せる」人間の「より大きな犠牲」でも構わず、自分のコンフォートを手に入れたい、になってくると、それがより大きな「奪う」になって「いじめ」や「戦争」になってしまう。

世の中のあらゆる「奪う」を取り締まり、それに応じたペナルティを下せるアルゴリズムが開発されて広まったら戦争もいじめもなくなる?
それじゃあ、資本主義社会で世襲される富の格差は「生まれつき奪われた状態」だから取り締まりの対象になる?もうそれだったら共産主義でよくね?

こんなことを考えていたら本当に戦争のない世界を実現することは困難なように思ってしまう。それでも考えつづけることで、想像しつづけることで、変わるかもしれない。歴史は繰り返すと言われても。

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