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【インタビュー】 漫画家・山本直樹の「家の履歴書」

週刊文春の「新・家の履歴書」(暮らしてきた家の記憶と共に半生を伺うロングインタビュー)で、漫画家の山本直樹さんを取材しました。了承をいただき、こちらのページに記事を全文アップします。初出は週刊文春2021年7月8日号です。

 漫画家の山本直樹さんは、エロ漫画をホームグラウンドとしながらも、連合赤軍事件を題材にした大長編『レッド』(第十四回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞作)や、内田百閒の幻想文学を原作とする短編『眠り姫』などを発表し、漫画表現の可能性を開拓してきた。

 一九六〇年二月一日生まれ、北海道松前郡福島町出身。生家では、両親と父方の祖母、三歳下の弟の五人家族暮らしだった。

 福島町は北海道南端の渡島半島にある、海沿いのまちです。家があったのは明治時代まで宮歌村と呼ばれていた、子供の足で一周二十分ぐらいの小さな集落。明治期に建てられた平家の一軒家で、昔はお店をやっていたらしい。ひいおじいさんの代までは海産物取引などでわりと儲けていたそうなんですが、父方の祖父が学校の先生になったのでお店を閉めました。ただ、商売をやっていた名残で、家の玄関では、たばこと塩とバスの切符を売っていましたね。海沿いだったので風がすごく強かったことを覚えています。

 五歳の時、茅部郡森町に一家五人で引っ越した。森町立森小学校、森中学校に進学する。

 中学校の数学教師をしていた父が転勤になり、道南では北部の方にある森町へ。母も中学校の数学教師だったんですが、僕が小学校に上がるくらいで専業主婦になりました。

 森町は駅弁のいかめしが有名な、漁師町です。両親ともこの街が気に入っていたらしく、父に定期的な転勤があることは分かっていながら一軒家を建てました。田舎なのでだだっ広くて、一階は十二畳くらいのリビングに六畳の親の部屋、客間と風呂トイレ。二階には八畳くらいの僕と弟の部屋、それから四畳半ほどの暗室。父が多趣味な人で、写真もやっていたんです。一緒に暗室に入り、父から現像の仕方を教わったりしましたね。

「森町」というくらいなので周囲は木が多く、家から歩いて五分ぐらいのところには巨大な森林公園がありました。公園のグラウンドで友達とソフトボールをやったり、家の隣の牧場にある使われていないサイロの二階に秘密基地を作ったり。漫画だと『パーマン』とかが好きで、自由帳に怪獣の絵を描くような普通の子供でした。エロ系に目覚めたきっかけは、小学校低学年で出会った永井豪の『ハレンチ学園』(一九六八年〜一九七二年、週刊少年ジャンプ)。これも当時の子供たちにとっては共通体験ですね。

 一九七五年四月、公立の北海道函館中部高校に進学し、下宿生活を始める。

 函館は家から通うには遠すぎたので、学校のすぐ裏にある、中部高校の人ばっかりが入る賄い付きの下宿でお世話になりました。二階建てで、二階が六部屋、一階が四部屋ぐらい。お風呂はなかったので、銭湯通いです。部屋は三畳間プラス、作り付けのベッド。二段ベッドみたいになっていて、僕の部屋は下半分がベッド、隣の部屋は反対に上半分がベッドというかたちです。

 高校は制服もなくて、自由な校風。今でも仲良くしているヘンな友達がたくさんでき、僕の部屋は飲み屋兼喫煙所になりました。下宿は男女混合で、同じ屋根の下に女子が何人もいて、みんなかわいかった。夜中の二時位まで廊下で立ち話をしたり、女の先輩から少女漫画誌の「りぼん」を借りたりして仲は良かったけれども、付き合う付き合わないみたいなことは一切なかったですね。部活動はバスケットボールで、高二の時は補欠兼マネージャーとして全国大会にも出ています。バスケの強豪校だったので、運動音痴の僕以外はみんな怪物。とにかく練習が厳しくて、放課後になるたび死にたくなる。なのに、やめたら人生が終わる、という謎の強迫観念に駆り立てられて続けました。練習すれどもバスケでは試合に出られず、下宿に帰ると女の子がいるのに誰とも付き合えず。学校生活は基本的に楽しかったんだけれども、毎日悶々としていました。

 一九七八年四月、早稲田大学教育学部国語国文学科に入学。初めての一人暮らしは、中野区新井薬師にある六畳間の風呂なしアパートだった。東京でも、悶々とした日々は続いた。

 高校時代は漫画を読むことも好きだったんですが、どちらかといえば活字にハマり、筒井康隆から始まり大江健三郎、安部公房、小松左京と手当たり次第に読んでいました。授業で小説を読むのはラクだし楽しいんじゃないかなと思い、早稲田の第一文学部を受けたものの入試で落ちて、教育学部に進学することに。

 新井薬師のアパートは、大学一年生の年末か正月に引っ越しています。高校の友達から葉書が届いて、「同級生三人で福生(市)の米軍ハウスに住まないか?」と誘われたんです。米軍兵士が住んでいた一軒家を、主に近くの美大生たちが借りて住んだりアトリエにしたりしていたんです。家賃は月四万九千円だというから、三人で割ると一人当たり一万六千円強。新井薬師のアパートより月二、三千円は安くなるし、同級生と一緒に住むのは楽しそうだなと思って話に乗りました。

 大きな庭のある平家で、床はフローリング。六畳の部屋が三つに十五畳ぐらいあるリビング、タイル張りのお風呂とトイレ、キッチンにはアメリカっぽい四連レンジが備え付けてありました。自分の部屋には、無骨な勉強机と本棚があるくらい。僕以外の住人はおしゃれだったので、リビングの家具なんかはしゃれていました。生活費はすべて折半です。ただ、電話代の折半は難しいので、電電公社に特例でピンク電話(公衆電話)を入れてもらいました。住んでいる途中で、米軍機の離着陸音がうるさいというクレームがどこかの家から出たらしく、僕らの家もおまけで防音工事をしてもらうことに。おかげでオーディオを爆音でかけて大騒ぎしても大丈夫ということになり、他の友達も呼んでよくパーティーをやっていました。

 住人は基本三人プラス、犬のトムと猫のチャック。メンバーは時々入れ替わっていて、男二人、女二人で住んだ時期が意外と長かったのかな。もちろん、彼女たちとは何もありませんでした。ある時、友達の女の子が僕の部屋に泊まりに来て、ベッドで寝ている彼女に「そっち行っていい?」と言った時がこの家で起こった唯一の色っぽいチャンスで、「ダメ」で終わり(笑)。

 福生の家から大学までは、片道三時間近くかかった。大学に行かなくなり半ば引きこもっていたある日、目から鱗が落ちる。

 家の中で漫画ばっかり読んで漫画の話ばっかりしていたら、友達に「そんなに好きなら、自分で漫画を描けばいいじゃん」と言われたんです。その発想はなかった、それはいいかもと思って描き始めたのが、大学二年生の十一月です。そこからしばらくは、落書きの日々。これじゃあ埒が明かないとなった大学四年の春、小池一夫の劇画村塾に入りました。入試の時に課題として提出した四ページの原稿が、実は人生で初めて最後まで描き上げた漫画です。就職活動は一切せず、こんなに漫画が好きなんだから、漫画家になれるだろう、という甘い考えで突き進んでいきました。

 劇画村塾に入る少し前に、米軍ハウス生活はお金関係のトラブルでごちゃごちゃしていました。隣りの米軍ハウスに住んでいるヒロコさんというおばさんが見るに見かねて「夜逃げしちゃえば?」と。黒人の退役軍人の旦那さんがトラックを出してくれて、大量の本や荷物と一緒に共同生活から逃げ出しました。新しい家は、西武所沢にある風呂なし六畳間のアパート。大学が劇的に近くなり、授業も出られるようになりましたね。

 大江健三郎の長編小説『みずから我が涙をぬぐいたまう日』論を卒業論文として提出し、一九八三年三月に五年かけて大学を卒業。京王線仙川駅(調布市)近くの、六畳と三畳の和室に台所三畳、風呂なしアパートに引っ越した。「友達が百草園に住んでいたので、新宿から京王線に乗って行ったところ千川駅で半地下になった。この段差が妙にグッときた」。

 一九八四年の春に「森山塔」名義でエロ漫画家デビュー、同年秋に本名名義で青年漫画デビューを果たす。

 二年間通った劇画村塾は、授業で学んだことも基礎になったと思いますが、のちに『ドラゴンクエスト』のシナリオを書く堀井雄二や、漫画家のとがしやすたか、原哲夫といった同期(三期生)の熱に刺激されたことが大きかった。同期数人とコミケ用の同人誌を作った時に描いたのが、初めてのエロ漫画です。出版社の持ち込み用に描いていたのは、当時流行っていたラブコメをパクった青年漫画っぽい青年漫画だったんですが、それとは別に趣味でエロい絵を描いていたんです。日々、悶々としていたから(笑)。その絵にストーリーをちょっと乗せてみたら、自分でものびのび描けて楽しかったし、周りもすごく褒めてくれた。調子に乗って同人誌で描いた二個目か三個目のエロ漫画の原稿を、友達の紹介で官能劇画誌の編集部に持ち込んだところ、新しい描き手を探していた別の編プロを紹介してもらうことになって、「じゃあ来月から六ページずつお願いね」といきなり連載をもらいます。当時は自販機本全盛で、エロ劇画がブーム。そんな中で、線が細くてかわいい絵柄は目立ったんだと思うんです。漫画の途中で脈絡なく唐十郎の芝居のセリフを引用したりするから、シュールだったんだとも思う(笑)。別口で動いていた青年誌への持ち込みも成功し、とんとん拍子でした。

 一九八五年、同い年の幼なじみと結婚。

 〇歳から五歳まで住んでいた宮歌の、隣の家の娘さんです。大学二年か三年の時に墓参りで十数年ぶりに再会して、あっ、かわいくなってるじゃんと。東京から、主に手紙で遠隔的に口説きました。デートは三回しかしていないんですが、デビューもまだ全然決まらない頃に「漫画家としてなんとか生計が立つようになったら、結婚しませんか」と。「何はんかくさいこと言ってんの?」みたいな反応でしたが(笑)。

 一番最初は、一人暮らしをしていた風呂なしアパートで二人暮らしです。奥さんの不満を察知してすぐ近くに六畳間の仕事部屋を借り、机や本も全部そっちへ持っていったんですが、今度は仕事場からなかなか帰ってこない。本格的に関係が悪化しかけたので、仙川に隣接する三鷹市北野に平家の一軒家を借りて、自宅で仕事ができるようにしました。ようやく家にお風呂がついて家庭環境も整いつつあったんですが、週刊連載の他に隔週連載も引き受けたせいで忙殺の日々が始まります。三つある部屋のうち、六畳間ふたつが僕ら夫婦の寝室とリビング、それから四畳半が仕事部屋。家庭は顧みないし一日中他人が家にいるしで、奥さんは大変だったと思う。やっぱり職住一致はいかんとなり、その家は自宅にし、仕事場体制を作り直しました。

 二十八歳の時に長女、三十歳の時に長男をもうける。

 エロ漫画を発表する時は森山塔(塔山森)を名乗っていたが、徐々に解消。一九九一年十二月に刊行された山本直樹名義の短編集『BLUE』は、東京都の青少年保護育成条例により初の有害コミック指定を受け、版元は絶版・回収措置を取った。その後、別の出版社から再刊行されキャリア最大のベストセラーとなる。

 一九九四年から一九九五年にかけて、単身赴任から帰ってきた父が崩壊しかけた家庭再建に立ち上がる『ありがとう』を発表。

 とにかく仕事が忙しくて、週に一回しか家に帰れない。「おうちに帰りたい」という自分の気持ちを漫画にしたのが、『ありがとう』です。今考えると、週刊連載は苦しかった。自分の適性に合っていなかったから。エロをメインに描けないこともそうだし、原稿を週一本絶対に描き上げなければとなると、毎回何かしらの心残りが出るんです。翌週はその心残りの続きを描かなきゃいけないから、心残りが二乗、三乗、四乗……と、連載が進むにつれて積み重なっていく。短編であれば“描き逃げ”ができるんですよ。

 『ありがとう』の連載終了を機に仕事場を畳み、一九九五年、三鷹市に新築した一軒屋で家族と暮らし始める。今も毎日篭る仕事部屋は、家の中でもっとも狭い三畳間だ。

 アシスタントを使わず漫画が描けるように、九〇年代頭からデジタル作画への移行を準備していました。『ありがとう』が終わって以降の作品は完全デジタルで、全て一人で描いています。家の設計図も、Macのペイントソフトでざっくり描いたものを建築士に渡しましたね。一階はだだっ広いリビングに、半分は段差なしの畳敷きのスペースにしてみんなでだらだら過ごす。二階は子供部屋と、夫婦の寝室。僕の仕事部屋は、日当たりゼロの一階の隅っこです。

 エロがほぼ出てこない『レッド』は、連合赤軍という題材を他の人に取られるのはイヤだから自分でやる、と思ってつい連載を始めてしまったんですが、完結まで十二年かかりました(二〇〇六年〜二〇一八年)。逃げる人に興味があったんですよね。それまでの自分を否定して自我の組み換えをすること、昔風の言葉で表現すると「自己否定」する人の心理を描いてみたかった。だから最終章の「あさま山荘事件」を描く頃は、モチベーションが下がってました(苦笑)。長編のストーリーものに“出張”するのは、これで打ち止めです。今後はエロ漫画というホームで、ゆるゆると描き続けていきたい。エロ漫画は、必ずしもストーリーを必要としません。面白くなくても、エロさえあれば成立するんです。エロネタだったら、山ほどストックがあります。ストレスなく一生描き続けられる、漫画家としての自分の適性はやっぱりここだったんだなと思っています。

 息子は理系の大学院を出てシステムエンジニアになり、娘は漫画編集者になりました。順番でいうと再来年(※二〇二三年)くらいに、娘担当でエロ漫画の連載を始めます。お父さんの描いた性器を娘が消す、ほのぼの地獄絵図が広がる予定です(笑)。

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