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時代を背負った歌手・笠置シヅ子



ジャズ歌手 笠置シズ子誕生

 日本の歌謡界には、様々なジャンルで女王になった歌手が幾人か存在する。ブルースで言えば淡谷のり子、シャンソンで言えば越路吹雪、そして、ブギと言えば笠置シズ子である。

 笠置シヅ子は一九一四年八月二十五日、香川県大川郡相生村(現・東かがわ市)に誕生。

 銭湯を営む父・音吉、母・ウメの元、幼少期は大阪の大正区南恩加島で過ごした。

 一九二五年三月二十二日から社団法人東京放送局(JOKA・現在のNHK東京ラジオ第一放送)が放送を始めたラジオから流れる音楽に合わせて、店に来た客に踊りを披露したりしていたという。

 一九二七年、小学校を卒業後、宝塚音楽歌劇学校を受験するも、そのやせっぽちで小柄な体型から宝塚での過酷なレッスンに耐えられないだろうとの理由で、不合格とされた。

 実力がないならいざ知らず、痩せた小柄な体型が理由なだけで不合格とされたことに、どうしても納得出来なかったシヅ子が次に目を付けたのが、松竹楽劇部生徒養成所(OSK日本歌劇団のかつての養成学校である日本歌劇学校の前身)だった。宝塚音楽歌劇学校不合格の悔しさを胸にシヅ子は受験、見事に合格を果たすと、娘役・三笠静子の芸名で『日本八景踊り』で初舞台を踏みデビューする。

 一九三三年に『秋のおどり・女鳴神』に出演すると、翌一九三四年、日本コロムビアから『恋のステップ』でレコードデビューを果たした。順調なスタートを切ったシヅ子だったが、一九三五年、昭和天皇の末弟である三笠宮崇仁親王が三笠宮家を創立したことで、三笠の芸名を使うとは畏れ多いとし、笠の字を残し笠置シズ子に改名したのだった。

 丁度この時期、シズ子は自らの出生について真実を知ることとなる。

 両親の代理で故郷の香川県にある親戚の家の葬儀に出席した時のことだった。

 シズ子の実父は、実家が製糖会社を営む郵便局員の三谷陳平で、母親は三谷家に和裁を習いながら家事見習いとして同居していた谷口鳴尾だった。二人の結婚は猛反対され鳴尾は実家に戻った。

 この時、母乳の出が悪かった鳴尾は、大阪から出産のために帰省していた、後にシズ子の養母となる亀井ウメに貰い乳をしていたという。それが縁でシズ子は亀井家の養女となったのだった。

 親戚の家の葬儀と言われて参列した、実父の三谷陳平の葬儀の直後、シズ子は生みの母である谷口鳴尾の家を訪ねているが、互いに親子だと名乗り出ることはなかったという。シズ子は全てを自分の胸に秘め、これまで愛情深く育ててくれた大阪の養父母の元へ帰って行ったのだった。

 それから数年が経った一九三八年、帝国劇場で旗揚げした『松竹楽劇団』(SKD)に参加したことで、シズ子の人生が本格的に動き出す。後のシズ子の歌手人生の大半の作品を手がけることになる、当時、新進気鋭の作曲家・服部良一との出会いを果たしたのだった。

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